曇り硝子の影
発明家の篠籠礼司は、曇り硝子の実験室から消えた。
科学館の公開実験で、篠籠は「人間を透明にする装置」を披露すると宣言した。観客席から見えるのは、曇り硝子で囲まれた小部屋と一つの扉だけ。午後三時、篠籠は舞台袖の黒い衝立へ歩き、その直後、曇り硝子の内側に彼らしい人影が現れた。影は扉側から中央へ進み、左手を挙げた。観客は、衝立の裏からそのまま小部屋へ入ったのだと思った。扉の施錠表示は最初から赤かった。
照明が三秒消え、再点灯すると影はない。助手の丹波路紀香、出資者の片折修弥、硝子職人の有働絹代が鍵を開けたが、室内は空だった。床も天井も一枚構造、扉の封印も切れていない。
観客は歓声を上げた。片折は成功を宣伝しようとし、丹波路は篠籠の行方を案じ、有働だけが硝子を見つめていた。けれど、空室からの脱出法を探す前に、私は「入った人影」そのものを疑った。根拠は三つある。
一つ。影は扉から奥へ歩いたはずなのに、曇り硝子上で大きさがほとんど変わらなかった。
二つ。影が顔を近づけた位置にも、冷えた硝子に呼気の曇りが一度も生じなかった。
三つ。篠籠は左肘を硬い固定具で曲げられなかったのに、影は最初に左腕を頭上まで滑らかに挙げていた。
有働が硝子の角を押すと、透明な薄板が斜めに仕込まれているのが見えた。
「反射像ですか」
「ええ。舞台で使うペッパーズ・ゴーストです。横の暗い控室にいた代役の姿を斜めの板へ反射させ、曇り硝子の内側に人影がいるよう見せた」
扉側から歩いてきたように見えた影も、実際には硝子へ重ねられた像だった。篠籠本人は開演前から小部屋へ入っておらず、観客が暗転を見つめている間に裏口から科学館を出た。消えたのではなく、最初から反対側にいたのである。
影の大きさ、呼気の不在、自由に上がる左腕。三つとも、影に身体がないことを示す。
私は空の実験室を見た。
「透明化に成功したのは人間ではありません。『入室していない』という事実のほうです」