最後のアレルギー札

 レストランの閉店まで、あと二十一分だった。

 赤坂仁菜は、厨房の棚から古いアレルギー表示札を外していた。明日、店は再開発のため取り壊される。

「それ、まだ残ってたんだ」

 牧野基成が裏口から入ってきた。元恋人であり、元料理長でもある。

「証拠だから」

「捨てていいよ」

「あなたが言う?」

 三年前、卵不使用と表示したデザートに、卵を含むソースが使われた。客は救急搬送されたが、幸い大事には至らなかった。

 仕込みをしたのは基成の父である店主だった。けれど謝罪会見で、基成は新人パティシエだった仁菜の確認不足だと説明した。店と父を守るには仕方なかった、と、あとで二人きりになって言った。

 仁菜は翌日辞め、基成とも別れた。謝罪文に自分の名が載ったせいで、次の店が決まるまで半年かかった。厨房の甘い匂いを嗅ぐだけで、会見のフラッシュを思い出す時期もあった。

「仕方ないと思ってた」

「今も?」

「思ってない。あのときの俺は、店を失うほうが怖かった」

「私を失うより」

「うん」

 はっきり認められると、仁菜は余計に苦しくなった。

 オーブンの余熱が残り、焦がしバターの匂いがする。仁菜がこの店で初めて作った焼き菓子を、基成だけが閉店後に褒めてくれた夜も、同じ匂いだった。

 客席では、最後の常連が会計をしている。シャッターが下りれば、この厨房で話すことも二度とない。

「今さら謝って、何がしたいの」

「仁菜が出した新しい店の求人、見た」

「応募する気?」

「そんな資格はない。ただ、表示表を作り直す手伝いならできる」

「また店のため?」

「今度は、仁菜が決めたことのため」

 仁菜はまだ基成を好きだった。だから言えなかった。好きだと口にすれば、自分が受けた責任まで恋愛で帳消しにされる気がした。

「仕方なかったって、もう言わないで」

「言わない」

「私も、嫌いになれないのは仕方ないって思ってた」

 基成が顔を上げる。

「違った。仕方ないんじゃない。まだ好きだから、許せない」

 閉店ベルが鳴った。

 仁菜は表示札を捨てず、新しい店の資料箱へ入れた。客席へ出ると、最後の椅子を一脚だけ上げずに残し、その前へ自分の名刺を置いた。基成が座るかどうかは見ないまま、シャッターを五分だけ開けておいた。