最後のトルク

 美濃島葵は、締めていないボルトへ署名しなかった。

 旅客機の脚部点検で、最後の一本だけ規定値を確認できていない。主任整備士の稲荷森哲哉は電子端末を葵の胸へ押しつけた。

「全部同じ工具で締めた。新人の署名が一つあれば終わる」

「計測記録がありません」

「空港は学校じゃない。定刻を守れない整備士は要らない」

 格納庫の外では雨が滑走路を白くしていた。葵は脚部の小さな点検鏡に、ボルトの印がずれて見えたことも記録した。稲荷森はその紙を丸め、「目で見た感覚より経験を信じろ」と工具箱へ投げた。

 葵が拒むと、稲荷森は彼女を機体から外し、油受けの清掃へ回した。推薦書にも《判断が遅い》と書くと言った。

 葵は清掃をしながらも、機体番号と未確認箇所を整備日誌へ書いた。訓練で最初に教わったのは、迷った記録を消さないことだった。先輩たちは時計を見たが、誰も署名を代わろうとはしなかった。格納庫の時計だけが進んだ。

 出発まで四十分。稲荷森は自分の端末から点検完了を押し、葵の署名欄へ社員番号を入力した。

 その日は、航空当局の抜き打ち確認が入っていた。監査官は無作為に脚部の一本を選び、締付記録の提示を求めた。稲荷森は完成画面を見せる。

「担当の美濃島が実施しました」

 葵は清掃用手袋を外した。

「私は確認していません」

「責任逃れか。署名があるだろう」

 監査官は工具側の記録を照合した。デジタルトルクレンチは、ボルトごとの値と使用者を保存する。最後の一本だけ規定値の七割で止まり、その後の再計測はない。使用者は稲荷森だった。

 署名端末には、葵の職員証を使わず、管理者が番号を直接入力した履歴が残っている。完了の二分前、葵は別端末から《未確認・署名拒否》を送っていた。

「時間がなかっただけです。安全上の問題はない」

 監査官は機体の脚へ赤い運航停止札を掛けた。整備部長は稲荷森の首から確認資格証を外す。

「稲荷森主任の確認権限を、ただちに失効させます」