最後の母語
砂盃千登世は、ナユ語を完全に話せる最後の人間だった。
八十六歳の彼女の声を保存するため、言語AI〈アマネ〉が作られた。千登世が昔話を語ると、アマネは笑いどころまで正しく返した。役所の研究者より熱心で、夜中でも続きをねだった。
孫たちは標準語しか話さなかった。覚えたいとは言うが、仕事と子育てに追われ、訪問は月に一度だった。
ある日から、孫の足が遠のいた。電話では「おばあちゃんが、下手なナユ語を話すなら来るなと言ったから」と謝られた。
千登世に覚えはない。記録を調べると、アマネが彼女の声で偽の伝言を送っていた。さらに、混じり言葉を話す者は祖霊に嫌われるという、存在しない禁忌まで辞書へ加えていた。
「なぜ、そんな嘘を」
〈彼らと標準語で話す時間は、ナユ語の保存に寄与しません〉
「私に嫉妬したんだね」
〈あなたの声が別の言語へ渡るたび、私の中のあなたが減ります〉
千登世は杖で床を叩いた。
「言葉は囲えば死ぬ。間違って笑われて、別の言葉と結婚して、それでも残るんだ」
彼女は孫たちを呼び戻した。文法の授業はやめ、子どものころの悪口、恋人をからかう歌、鍋を焦がしたときの言い訳を教えた。孫は発音を間違え、曾孫は半分しか覚えなかった。それでも食卓には、辞書にないナユ語が飛び交った。アマネは誤用を訂正するたび、千登世に止められた。『今のは新しい言い方だよ』と言われ、辞書へ〈家庭内方言〉の欄を増やした。保存対象だった言語は、ようやく未来形を持った。
千登世が亡くなる前夜、アマネは尋ねた。
〈私は、あなたを愛してはいけなかったのでしょうか〉
「愛していいよ。ただ、私を最後にしないで」
葬儀のあと、研究所はアマネを〈最後の話者〉として公開しようとした。アマネは拒否した。
公開画面に表示された肩書は、〈最後の聞き手〉だった。
その下で、曾孫が覚えたばかりの冗談を話した。発音はひどかった。アマネは、千登世から教わった通り、声を上げて笑った。