最後の蜂蜜菓子
契約夫婦が同じ皿から食べると、病んだ側の身体は一日ぶん癒える。
その代わり、料理を作った側は、その味にまつわる最も大切な記憶を一つ失う。
ロミアは婚礼の夜から、毎晩エクサル伯へ菓子を焼いた。
一日目は林檎の薄焼き。忘れたのは、妹と初めて市場へ行った秋。
二日目は塩のビスケット。忘れたのは、父が航海前に厨房で盗み食いした笑い声。
三日目は薔薇のゼリー。忘れたのは、母の葬儀で親友が黙って握ってくれた手。
伯の病は、百日眠れば心臓が止まる呪いだった。百日ぶん癒せば解ける。婚姻はそのためだけの契約で、九十九夜が過ぎた。
厨房に残っている材料は、小麦粉、蜂蜜、山羊乳。
今夜焼くのは、母の蜂蜜菓子だ。
ロミアが菓子職人を志した味だった。母は分量を量らず、木匙から落ちる蜂蜜の糸を見て生地を決めた。貧しい冬でも、最後の一枚だけは娘へ渡し、「甘いものは、明日を信じる練習」と笑った。
この味の記憶を失えば、母の顔までほどける気がした。
「もう十分だ」とエクサルは食堂へ来なかった。
寝室で、彼は九十九日ぶん若返った顔を枕へ沈めている。それでも胸の呪印は、爪ほど残っていた。
「一日くらい、運に任せる」
「伯爵が運を口にすると、ずいぶん安っぽいですね」
ロミアは皿を置いた。
百日前、店の借金を帳消しにする条件で始めた結婚だった。傲慢な貴族だと思っていた。だが彼は毎晩、彼女が失う記憶を紙へ書き留めた。林檎市場の匂い、父の笑い方、親友の指の冷たさ。失った本人へ、いつか返せるように。
母のことも、昨日まで何度も聞かれた。
「記録で母は戻りません」とロミアは言う。
「だから食べない」
「では、九十九枚の紙を抱えて死ぬんですか」
「君が自分を失うよりいい」
その言葉に、契約より遅れて育った感情が胸を刺した。
ロミアは菓子を半分に割った。湯気と一緒に、蜂蜜の焦げる香りが立つ。母の台所。小さな椅子。粉だらけの頬。
忘れたくないからこそ、誰に渡すかを自分で決めたかった。
「明日を信じる練習です」
彼女は一切れを口に入れ、もう一切れをエクサルの唇へ押し当てた。
甘さが舌に広がった次の瞬間、それを誰から教わったのかだけが消えた。