月謝の代わりに夕飯
冬木希和は、古い家でピアノを教えている。
二十二歳の鳴海新は、学生寮の閉鎖で住む場所を失い、かつての恩師である希和の家へ一時的に転がり込んだ。
「家賃はいくらですか」
「空き部屋だから、電気代だけ」
「では月謝を払います」
「もう生徒じゃないでしょう」
話し合いの結果、新が週三回夕飯を作ることになった。
最初の料理はカレーだった。
人参は大きく、玉葱は一部焦げ、じゃが芋は煮崩れた。
「音楽で言うと?」
新が訊く。
「テンポは乱れてるけど、最後まで弾いた」
「褒めてます?」
「食べられる」
希和は二杯食べた。
新は家でも希和を「先生」と呼ぶ。
朝、新聞を渡すときも、風呂が空いたときも。
「先生、牛乳切れました」
「先生は牛を飼っていません」
「買ってきます」
「新君のプリンも」
母子のようだと近所に言われると、新は否定し、希和も否定した。二人とも、その言葉へ無理に近づく必要はないと思っていた。
ある木曜、新の帰りが遅かった。
希和は先に夕飯を済ませるつもりだったが、冷蔵庫へカレーが一皿残っているのを見つけた。
ラップには油性ペンで、
〈先生の分。鍋で温めること。電子レンジだとじゃが芋が爆発します〉
と書いてある。
その下へ小さく、
〈家の人へ〉
と付け足されていた。
希和は文字を二度読んだ。
帰宅した新へ何も言わず、カレーを鍋で温めた。
香辛料と玉葱の匂いが夜の台所へ広がる。
「ラップ、見ました?」
「爆発を避けました」
「下の方」
「字が小さい」
新は耳を赤くした。
食後、新がピアノの前へ座った。
昔練習した曲を、途中まで弾く。左手が一か所止まり、希和は指摘しようとしてやめた。
新は自分で弾き直し、最後まで進んだ。
「月謝、これで足りますか」
「夕飯と一曲で、今月は十分」
「来月も?」
「空き部屋が空いていれば」
「僕が使ってるから空いてません」
「では、しばらく満室ね」
ピアノの蓋を閉じる。
部屋にはカレーの温かな香りと、最後の和音の振動が残った。
先生と元生徒のままでも、同じ家へ帰り、互いの分の皿を残すことはできる。
呼び名より先に、食卓の椅子が二つ、毎晩同じ場所へ並んでいた。