朝ごと忘れる剣士の昨日タルト

剣士ユリアンは、菓子店〈昨日の窓〉へ入ると、まず店主の名を尋ねた。

「マシェリです」

彼は手帳へ書いた。朝になるたび前日の記憶を失う呪いを受け、名前も約束も、その日に得た剣技さえ消える。手帳を読めば事実は分かる。しかし文字は他人の人生の記録にしか見えず、努力を積み重ねた実感がなかった。明日の昇級試合も、今夜覚えた型を忘れれば勝てない。

手帳の後ろには、知らない筆跡に見える自分の署名が百日分並んでいた。〈今日は勝った〉〈今日は友を作った〉、〈明日は覚えていたい〉。どの行にも胸は動かない。ユリアンにとって努力は毎朝ゼロへ戻り、昨日の自分だけが先へ進んでいくようだった。

マシェリは林檎の薄切りを重ねた小さなタルトを出した。縁の砂糖が、日記の罫線のように並んでいる。

「昨日タルトです。眠る前に食べると、その日最後に選んだ記憶を一つだけ、明日の舌へ残します」

「記憶が甘くなるのか」

「苦い日なら、少し酸っぱくなるかもしれません」

ユリアンは店の隅で、試合に使う一つの型を何度も繰り返した。踏み込み、抜刀、返し。百回目でようやく迷いが消える。それからタルトを食べた。煮林檎の甘酸っぱさと一緒に、足裏の重心、柄を握る指、刃が空気を切る音を強く思い浮かべた。

「明日、俺が来ても、今日と同じ説明をしてくれ」

「必要なら」

「必要でないことを願う」

代金を払い、彼は帰った。

翌朝、開店と同時にドアベルが鳴った。ユリアンが立っている。手には手帳があったが、開いていない。

「おはよう、マシェリ」

店主は息を止めた。

彼は店内で剣を抜かず、鞘のまま一歩踏み込んだ。昨日百回繰り返した型と寸分違わない。止まった鞘先は、棚の砂糖花に触れる直前だった。

「覚えている。文字じゃなく、俺の昨日として」

ユリアンは銀貨を三枚置いた。一枚は昨日の代金、残りは追加注文だという。

「試合のあと、毎日一つ買う。失いたくない日は、これから増える」

彼が朝日へ歩き出し、扉が閉じた。

マシェリが初めて自分の名を領収帳へ書いた瞬間、ちりん、と二度目のベルが鳴った。