杉の間をひらく鍵

山あいの旅館《水明》には、八年間閉じたままの客室がある。

若女将の藤代真珠が、その「杉の間」の合鍵がなくなっていることに気づいたのは、繁忙期が終わった朝だった。鍵箱へ触れられるのは、祖母で大女将の湯浅柚葉、板前の阿久津、昨夜まで杉の間の隣室に泊まった常連客の岩橋くらいだ。

部屋に高価なものはない。そこは、真珠の母が亡くなる前に最後の休暇を過ごした客室だった。病室から一日だけ戻った母は、窓辺で山を眺め、「働かない旅館も悪くない」と笑った。その言葉を思い出すのが怖くて、真珠は八年間、扉の前を早足で通り過ぎてきた。

廊下には新しい杉の削りくずが二片。リネン庫からは敷布団が二組減り、帳場の引き出しには、母と幼い真珠が縁側で笑う色あせた絵葉書が置かれていた。

真珠は杉の間へ向かった。扉は開いている。

室内には朝の光が差し、畳は新しく張り替えられていた。二組の布団、湯気の立つ茶、母が好きだった山椒餅。窓辺で柚葉が花を生けている。

合鍵を持ち出したのは祖母だった。阿久津に頼んで傷んだ床板を直し、岩橋には町から畳職人を乗せてきてもらったという。

「売るつもりかと思った」

真珠は絵葉書を握った。旅館の経営が苦しいことを、祖母も知っている。閉じた部屋を客室に戻す話は何度も出ていた。

「今日は客を泊めんよ。あんたを泊める」

真珠は、母が亡くなってから一度も連休を取っていなかった。休めと言われるたび、「この部屋を見るより働く方が楽」と答えた。柚葉もまた、孫に悲しみを思い出させるのが怖くて、鍵を掛けたままにしていた。

「閉めとくのが優しさだと思っとった。でも、思い出まで埃をかぶるね」

柚葉は勝手に開けたことを謝り、合鍵を茶托の下から出した。

真珠はすぐには受け取らなかった。縁側へ座り、絵葉書と同じ山の稜線を見る。隣に祖母が座ると、二人分の畳がわずかに鳴った。廊下では阿久津が、休暇中の若女将へ仕事を頼みに来る客を、いつもより大きな声で追い返していた。

茶は少し渋く、山椒餅は舌の先を温めた。

真珠は一口かじって言った。

「今夜だけ、泊まります」