校庭を貸した人
新築マンションの話になると、綾瀬森紗耶香は必ず階数を言った。
「うちは駅前タワーの四十二階。主人が不動産会社の支店長だから、いい物件が先に回るの」
借家に住む榎並谷真綾乃へは、引っ越し相談を持ちかけた。
「ご主人、普通の会社員でしょう? 頭金が少なくても買える郊外物件なら、主人に頼めるわ」
真綾乃は「夫も不動産に関係しています」と答えた。
学校の校庭が狭く、隣地を借りて拡張する計画が持ち上がった。紗耶香は、夫の会社が交渉をまとめたと保護者会で自慢した。
「支店長夫人として、学校へ貢献できて嬉しいわ」
調印式の日、紗耶香の夫・倉本原伸綺は、会社の旗を持って来校した。だが署名者席へは座らず、真綾乃の夫を迎えに入口へ向かった。
「榎並谷会長、お待ちしておりました」
榎並谷恒周は、倉本原が勤める不動産グループの会長で、学校周辺一帯の土地を管理する創業家当主だった。真綾乃一家が住む古い借家も、相場を抑えて地域へ貸すため残している一軒だった。
今回、校庭用地は売却ではなく、三十年間無償で学校へ貸し出される。恒周が固定資産税と整備費も負担する契約だった。
紗耶香は夫の袖を引いた。
「支店がまとめた案件でしょう?」
伸綺が小声で答える。
「会長が無償提供を決めた。支店は書類作成を手伝っただけだ」
さらに紗耶香は、保護者へ配った物件紹介カードに〈学校推薦・支店長特別価格〉と書き、夫の承認なく営業していた。会社のコンプライアンス担当がカードを回収する。
真綾乃が借家暮らしを続ける理由を、紗耶香は尋ねた。
「社宅でもない古い家に、どうして?」
「祖母が暮らした家を直しながら、家賃を地域基金へ入れているからです」
子どもたちが新しい校庭へ入り、最初の白線を引いた。
土地使用契約へ恒周の名が正式に明記され、伸綺が会長の下で証人として署名した瞬間、四十二階から借家を見下ろしていた紗耶香だけが、自宅の土地も夫の会社も、真綾乃の家族から借りた場所にあると知った。