桂馬の経費精算
コンプライアンス室長の城戸弥生は、会議机に必ず将棋の桂馬を一枚置く。
山吹色のパンツスーツで、報告を聞きながら桂馬を二歩先へ跳ねさせる。
「真っすぐな説明ほど曲がる」
有馬小夜は、先輩社員の経費精算に不審な点を見つけた。月に二度、休日の宿泊費と長距離交通費が申請され、行き先はすべて黒塗り。承認者は役員一人だけだ。
「私用を会社へつけている可能性があります」
「何を確認した」
「日付と金額です。理由は機密扱いで見られません」
「見られないものを、見たい気持ちで補ったな」
小夜は顔が熱くなった。だが、見逃して問題になれば自分の責任だ。
弥生は申請を握りつぶさなかった。黒塗り部分を開示できる第三者監査へ回し、宿泊規定と領収書だけを照合する。確認室へ入れるのは弥生だけだったが、彼女は扉の前で小夜に待つよう命じた。『疑った人間へ、秘密を見る褒美を出すな』と言う。
結果はすべて適正。出張目的は、なお小夜には知らされなかった。弥生は監査結果を「規定適合」の一行で提出し、役員会でも黒塗りの理由を明かさなかった。権限を持つ者ほど覗かない。その不自由を、自分で引き受けていた。
「何の出張だったんですか」
「適正かどうかに必要ない」
「でも、本当に会社の仕事だと納得するには」
「納得のために、他人の事情を買うな」
弥生は別の書類を示した。小夜が半年前に受けたカウンセリング費用の補助申請が、部署共有フォルダへ誤って保存されている。彼女はすでに削除し、閲覧履歴も封印していた。
「見たんですか」
「金額と規定だけ。内容は見ていない」
小夜は、自分が先輩へ向けた疑いの形を初めて理解した。違反を調べることと、秘密を暴くことは同じではない。知らないまま適正と判断する技術も、この部署には必要なのだ。
弥生は桂馬を申請書の黒塗り部分へ置く。
「桂馬は、間を飛び越える駒だ。飛び越えた場所を踏み荒らさない」
これまで小夜には、規則を曲がって進む変な駒にしか見えなかった。
弥生はもう一枚の桂馬を彼女へ渡した。
「真っすぐな説明ほど曲がる。だから私たちは、必要な事実だけへ着地する」
二枚の桂馬は、互いの秘密を挟まず、同じ二歩先を向いた。