欠けた方から注ぐ
戸塚香蓮は、恋人の浮気を確かめる方法を訊きに、カフェ〈月欠け〉へ来た。
バリスタの御子柴景は、左側が大きくへこんだ銀のミルクピッチャーを使う。胸元には三日月のピン。ミルクを注ぐたび、決まって言った。
「欠けた方から注ぎます」
香蓮が見つけたのは、恋人の睦美が予約したホテルの確認メールだった。二名一室。来月の土曜日。相手の名前は表示されていない。
「スマートフォンを見れば、誰と行くか分かると思うんです」
「もう見ていますね」
景は香蓮の画面を見ずに言った。
「メールは共有タブレットで偶然」
「偶然見た人は、予約番号を暗記しません」
香蓮は番号を検索欄へ入力したままだった。さらに鞄から、海外行きの航空券がのぞいている。三か月後の日付。片道。睦美にはまだ話していない、二年間の研修留学だった。
「浮気を確かめたいんじゃありませんね」
「何が言いたいんですか」
「別れる理由を、相手の鞄へ入れたい」
へこんだピッチャーから、白いミルクが細く正確に流れた。カップの表面には、二つに割れた月が描かれる。
香蓮は反論できなかった。留学を選びたい。遠距離を続ける自信はない。自分から関係を終わらせる人になるのが怖くて、睦美に落ち度があれば楽だと思った。
「でも、ホテルは事実です」
「事実なら訊けばいい。盗み見る前に」
「浮気だったら?」
「そのとき傷つけばいい。まだ起きていない傷を使って、自分の選択を正当化しない」
厳しい言葉のあと、景は店の奥にある小さな半個室を開けた。電話をする客のための席で、扉には白い月が描かれている。
「留学の話からしてください。ホテルの質問を武器にしないで」
香蓮は睦美へ電話した。留学を黙っていたこと、行きたいこと、離れて続けられるか不安なことを話した。
ホテルは、睦美が香蓮の誕生日に予約した近郊の宿だった。相手欄は宿泊者本人の入力が不要なプランで、二人で行くつもりだったという。
安堵のあと、別の痛みが来た。疑った自分ではなく、逃げ道を探した自分への痛みだった。
通話を終えると、景はへこんだピッチャーを香蓮へ見せた。
「それ、買い替えないんですか」
「へこみのおかげで、注ぐ線が細くなります」
「欠けた方から注ぐって、悪い方から考える意味じゃないんですね」
景は三日月のピンを外し、ピッチャーのくぼみへぴたりとはめた。月はそこで初めて丸く見えた。
「欠けは、逃げ道ではありません。向きを決めれば、注ぎ口になる」
香蓮は航空券をテーブルへ出し、今度は隠さず写真を睦美へ送った。