正面を向く茶碗
茶人の鞍馬が主宰する小間から、家元伝来の掛軸が消えた。午後五時、弟子の奈良崎と共同所有者の由良は、軸が掛かっているのをそろって確認して退室した。その後、鞍馬は「古美術商の客と二人で薄茶を飲んだ。客が帰った直後、軸がないと気づいた」と証言した。出入口は一つで、鞍馬が挙げる客以外に入室者はいない。
容疑者は鞍馬、弟子の奈良崎、軸の共同所有者である由良。奈良崎は独立を拒まれ、由良は売却を望み、鞍馬には多額の修復費を隠す事情があった。鞍馬は、名も名乗らず去った客を犯人だと言い張った。畳には二つの茶碗が置かれ、片方は鞍馬の前、もう一方は向かいの客座にある。客座の茶には、ひと口飲んだほどの空きが見えた。
作法に詳しい刑事の久慈野は、客座の一碗だけを見た。
「架空の客を見抜く手掛かりは三つです」
一つ目。客座の茶碗は、最も華やかな絵を正面から客へ向けたまま置かれている。薄茶を飲む客は正面を避けるため、必ず二度回す。
二つ目。茶の泡は縁まで均一で、口を付けた崩れが一か所もなく、茶碗の縁も内外とも完全に乾いている。
三つ目。小間へ至る庭の白砂は五時に奈良崎が掃き清めた後、鞍馬の草履跡しか残していない。塀や別の入口はない。
奈良崎は客を見ておらず、由良も庭門から誰も出なかったと話した。久慈野は、二つ目の茶碗が使われていないことと、そこへ来る足跡がないことを切り離さずに読んだ。
鞍馬は静かに笑った。
「作法を知らない客だったのでしょう」
「あなたは、作法を知らぬ者に家元の軸を見せたのですか」
久慈野の問いに、小間の空気が狭くなった。
「客は来ていません。あなたは二碗目を客座へ置き、最初から少なめに茶を入れて“飲み残し”を作った。だが茶碗は回されず、泡も縁も手つかずで、庭には二人目の足跡がない。減ったように見える量は、初めから少なく入れれば作れます。二碗は二人を意味しない。五時以後に小間へいたのはあなただけで、掛軸を処分した責任を名のない客へ移そうとしたのでしょう」久慈野が客座の茶碗を元の正面へ戻すと、鞍馬は初めて視線を外した。二つの茶碗は二人の存在を保証しない。存在しない客には、もう罪を着せられなかった。