残った一枚

円香が消したのは、写真ではなかった。

けれど最初の一分、彼女にはその違いが分からなかった。

写真スタジオで、家族写真の肌補正をしていた。保存先を間違え、作業中のデータへ別カットを上書きした。三時間分の修正が消えた。元画像とバックアップはある。納品日は一日延ばせば間に合う。それでも画面に出た《復元できません》の文字で、円香の手は震えた。

客の子どもが一瞬だけ笑った写真だった。笑顔そのものは元画像に残っている。消えたのは、円香が整えた影と色だけだ。

上司へ報告し、納期変更の連絡を頼んだ。返事は「バックアップからやり直そう」。責任の話は、明日の面談ですることになった。

帰宅すると、円香はパソコンの中の《失敗》フォルダを開いた。

入社してからのミスを、スクリーンショットで保存している。色むら、傾いたトリミング、客から届いた短い苦情。失敗を忘れたら、また同じことをすると思って集め始めた。いつの間にか、仕事がうまくいった日は一枚も残さず、傷だけを夜ごと見返すようになった。

今日の《復元できません》も保存しようとする。

ファイル名は《20260808_上書き_最低》

「最低」の二文字を打ったところで、円香は手を止めた。

作業記録は会社の共有フォルダにある。原因も、再作業も、明日の確認事項も残っている。このスクリーンショットは再発防止のためではない。眠る前の自分を責めるためだけのものだ。

円香は新しい画像を保存しなかった。

代わりに《失敗》フォルダを外付けディスクへ移そうとして、やめた。逃がせばまた開く。全選択し、削除する。確認画面で指が固まったが、《はい》を押した。

消えた二百十三枚は戻らない。仕事の失敗も消えない。

デスクトップには、今日持ち帰った確認用の一枚だけが残った。補正前の家族写真。子どもの頬には小さな引っかき傷があり、父親のシャツにはしわがある。

円香は拡大せず、そのまま画面を閉じた。

明日また元画像から始める。今夜は、失敗した自分を復元し続ける作業を、保存しなかった。