残り一度の電話カード

海辺の駅に、古い公衆電話が一台だけ残っていた。

母の遺品から出てきた電話カードを差すと、残度数は「1」だった。

娘は、取り壊された実家の番号を押した。

呼び出し音のあと、亡くなった母が出た。

「遅い時間に電話しないで」

「昼です」

「こっちは夕飯前」

母の声は、カードの最後の一度数が残っている間だけ受話器へつながった。通話を切るか、度数がゼロになれば終わる。

娘は、母を介護施設へ入れたことを後悔していた。

母は最後まで自宅を望み、

「家を取るの」

と娘を責めた。

一人で支えきれず、施設を選んだ。入所から半年で母は亡くなり、実家も売った。

「恨んでた?」

母はすぐ答えない。

公衆電話の小窓へ、波が反射して揺れる。

「最初は」

娘の指が受話器を強く握る。

「でも施設の風呂、家より広かった」

「そんなことで?」

「食事も、人が作る方がおいしかった」

「じゃあ、なぜ毎回帰りたいって」

「帰りたい日もあったから」

娘は、母の言葉を一つの判決として受け取っていた。

帰りたいと言われれば、施設へ入れた選択の全部が間違いになる。

母の中には、帰りたい日と、施設が楽な日が同時にあった。

「最後の日、私が行かなかった」

感染症で面会が制限され、翌週なら会えると思った。

母はその前に亡くなった。

「電話したでしょう」

「職員さんが耳元に置いたって」

「聞こえた。仕事の話ばかり」

娘は泣きながら笑った。

何を言えばいいか分からず、孫の試験や庭の手入れを話し続けた。

残度数の表示が点滅する。

「心残りは家?」

「家はもうないんでしょう」

「うん」

「なら、心残りにできない」

母は少し考えた。

「押し入れの梅干し」

「捨てた」

「罰当たり」

「三年前のよ」

「食べられた」

表示が「0」へ変わりかける。

「待って」

「何」

「ごめん」

「何にでも使う言葉にしないで」

娘は言い直した。

「施設を選んだことは、今も正しかったと思う。お母さんが嫌だった日を、なかったことにはしない」

受話器の向こうで、母が息を吐いた。

「それでいい」

カードが戻り、通話が切れた。

娘は海辺の町へ梅の苗を一本植えた。

実家の再現ではない。施設の庭で母が眺めていた品種を選んだ。

実がなるまで何年もかかる。

母へ食べさせることはできない。

それでも未来へ残す物は、心残りではなく、まだ味の決まっていない約束でよかった。