母の留守電

匡哉は、母親から虐待されて育ったと言った。

彼は母親の番号を〈毒〉と登録し、着信画面を私に見せてから切った。なのに番号そのものは暗記していた。

婚約してからも、週に一度は留守電が入る。甲高い声で「恩知らず」「今すぐ来なさい」と怒鳴る母親を、彼は震えながら私に聞かせた。私はそのたび背中をさすり、着信拒否を勧めた。

彼の母親を名乗る手紙が届いた時も、私は封を切らず送り返した。匡哉は涙を浮かべて礼を言い、「深月なら僕を捨てない」と何度も確認した。私は、母親に植えつけられた不安なのだと考え、仕事を休んでまで彼のそばにいた。父親の容体を尋ねる電話にも、家族を装った罠だと思って「もう関係ありません」と答えた。

その後、知らない病院から礼を言う手紙が届いた。私は母親の新しい手口だと思い、匡哉に渡さず破った。紙片の中に「面会拒否」の文字が見えたが、彼を守れた満足の方が大きかった。

ただ、再生する時の癖が気になった。匡哉は必ず最初の七秒を飛ばす。もう一つ、「警察」という言葉が聞こえると、罵声より強く肩を揺らした。

「昔のことを思い出す」と言われれば、それ以上は聞けない。

私は母親から彼を守るため、電話にも郵便にも応じなかった。結婚式の招待状も送らないと決めた。匡哉は「深月だけが家族だ」と泣いた。

ある日、彼が風呂に入っている間に留守電が届いた。私は初めて、頭から再生した。

『匡哉、またお父さんを殴ったのね。年金のカードを返して。警察へ相談したから――』

七秒後から、声は怒鳴り声に変わった。彼がいつも聞かせた部分だ。

続く録音には、父親の入院費、消えた預金、家の鍵を替えた夜の話が残っていた。母親は彼を支配していたのではない。家へ戻らせないよう必死だった。

風呂から出た匡哉は、私の手の端末を見ると泣き崩れた。

「母さんは、録音まで作って僕を悪者にするんだ」

その顔は、私が何度も抱きしめてきた被害者の顔だった。私は自分が疑ったことを恥じ、端末を差し出した。匡哉は私を抱きしめたまま、留守電を一件ずつ削除した。

彼が消したのは母親の罵声ではなく、いつも聞かせなかった最初の七秒だった。