母の顔だけ

牧丘弓子は、母の顔だけを削除した。

母を看取ったあと、弓子は街中のあらゆる顔に母を見た。電車で眠る老女、スーパーの店員、交差点の向こう側。似てもいない人を追いかけ、肩をつかんでは謝った。医師は、人物の視覚記憶を切り離せば幻視は止まると言った。

施術は成功した。

遺影を見ても、弓子には知らない女性が微笑んでいるようにしか見えなかった。母が丸顔だったことも、右眉の上にほくろがあったことも分からない。街で他人を追うことはなくなった。

だが、声は残った。

〈弓ちゃん、靴の踵を踏まないの〉

〈味噌汁、煮立てちゃだめ〉

〈つらい日は、早く寝た者勝ち〉

記憶の中の母は、顔のない声になった。弓子は安心する一方、その声が誰の口から出ていたのか確かめられないことに怯えた。写真を見ても結びつかない。母は世界でただ一人、顔を持たない人になった。

弓子は商店街の写真館で、遺影の修復をする仕事に就いていた。以前は傷んだ部分を忠実に補っていたが、施術後は顔の細部に迷うようになった。依頼人へ何度も尋ねた。

「この方は、どんな笑い方でしたか」

「怒ると、どちらの眉が上がりましたか」

「あなたを見るとき、目は細くなりましたか」

写真の正確さより、その人が誰かを見ていたときの表情を描くようになった。評判が広まり、弓子のもとには、ほとんど顔の残っていない古い写真まで持ち込まれた。

ある日、自分の母の遺影を修復してみた。元の写真は鮮明で、直す必要などない。それでも弓子は、知らない女性の目尻をほんの少し下げた。味噌汁を煮立てた自分を叱りながら、最後には笑ってしまった声を頼りに。

完成した顔は、本当の母と少し違うのかもしれない。

弓子は遺影へ向かい、「お母さん」と呼んだ。何も思い出さなかった。ただ、胸の奥から例の声がした。

〈つらい日は、早く寝た者勝ち〉

弓子は笑い、写真館の灯りを消した。

顔を忘れたことで、母は一枚の写真からいなくなった。

その代わり弓子は、誰かを大切に見るときの眼差しの中に、母を描けるようになった。