水槽越しのSOS
閉館五分前、鏡味渉の携帯へ館内公衆電話から着信があった。
『お兄さん、魚が逃げてる』
幼い声の背後で、水中トンネルのアクリル板が低く鳴った。大型水槽との接合部に白い亀裂が走り、七十秒後、三千トンの海水が観覧通路へ落ちる。
渉が隔壁を閉じると、亀裂側の圧力が上がって板が砕けた。次の瞬間、また閉館放送。携帯が鳴る。
人数表示がゼロになるまで接合部を保ち、観客三十六人を通路外へ出す。それが渉の出口だった。
水位を急低下させると、巨大な水流でジンベエザメが排水口へ吸い寄せられ、尾が配管を塞いだ。
観客を走らせた回では、転んだ子を助けるため人が戻り、最後の一人が出る前に板が割れた。
『お兄さん、魚が逃げてる』
公衆電話のそばには、絶滅したはずの小魚を描いたポスターがある。その魚は、裏側の繁殖槽で世界最後の百二十匹が育てられていた。渉が十年かけて水質を調整し、来月、野生復帰させる予定だった。
設計図には使われていない圧力逃がし管がある。開けば大型水槽の海水は繁殖槽へ流れ込み、接合部の圧は下がる。だが淡水魚の稚魚は一匹も残らない。
渉は別の手順を何度も試した。逃がし管を半分だけ開く。稚魚を網ですくう。ポンプを逆回転させる。どの差分も七十秒を越えなかった。
次の電話で、子どもが聞いた。
『魚、助かる?』
渉は繁殖槽の監視映像を見た。銀色の小さな群れが、何も知らず同じ向きへ泳いでいる。
「助からない魚もいる」
緊急弁を全開にした。
海水が繁殖槽へ雪崩れ込み、銀の群れが白い泡に消える。同時に大型水槽の圧力が落ち、亀裂の音が止まった。避難人数は一人ずつ減り、ゼロになる。
七十一秒。時間は進んだ。
公衆電話の子どもが、濡れていない床へ出てきた。渉へ礼を言おうとしたが、彼は首を振った。
館内表示の種保存数が〈120〉から〈0〉へ変わる。渉はその数字を消さず、事故報告書へ自分の判断として残した。
ガラスの向こうでは、大きな魚たちが何事もなかったように泳いでいた。小さな魚のいない水だけが、以前より広く見えた。