水漏れと一冊目の写真集

江波戸葉月は、出版社の資料室で働いていた。自社の本にはすべて管理番号を振り、私物は持ち込まない。それが葉月の決めた線引きだった。

例外は、女性アイドルグループ〈Lace〉の真珠が出した最初の写真集だけ。デビュー当時から応援してきた証で、サインには葉月の名前まで入っている。発売記念会で緊張して何も話せなかった葉月に、真珠は『名前、きれいですね』と言ってくれた。仕事で自分の名前が訂正印に埋もれる日も、その文字を見ると一人の読者へ戻れた。家では同居人に趣味をからかわれるため、会社の机の一番下、業務マニュアルの下へ隠していた。

大雨の日、天井から水が落ちた。

「資料を上へ!」

社員が本棚の本を運ぶ中、葉月の机にも茶色い染みが広がった。引き出しを開けると、写真集の角が濡れている。資料室の管理担当としては、まず共有財産を運ぶべきだと分かっていた。けれど名前入りの一冊を失えば、同じ版を買い直しても戻らない。だが周囲には自社の貴重資料が山ほどあり、私物を先に救うと言えなかった。

葉月が迷っていると、アルバイトの戸村颯子が写真集を抜き、防水袋へ入れた。

「これ、代えが利かないやつですよね」

表紙を見られた。サインも名前も、全部見えた。葉月は「業務と関係ないから後で」と言ったが、颯子は首を振る。

「初版資料も、誰かにとって大事だから守るんでしょう。これも同じです」

二人で資料を運び終えたころ、写真集の濡れは端だけで止まっていた。颯子は吸水紙の挟み方を調べ、重しまで用意してくれた。真珠のことは知らなかったが、葉月の大切さは疑わなかった。

翌日、葉月は机の中を整理した。写真集をマニュアルの下へ戻しかけて、やめる。透明な保存箱へ入れ、ラベルを貼った。

〈私物・写真集/水濡れ厳禁〉

昼休み、颯子がラベルを見て笑った。

「管理番号は付けないんですか」

葉月は少し考え、箱の右上に〈HZK-001〉と書いた。仕事の棚と同じ書式だった。

一冊目から好きだった自分を、ようやく正式に所蔵した。