沈まぬ黒旗

セラーノは黒旗を身体へ巻き、死体の筏の下へ潜った。

湾口を封鎖する敵艦隊は、生者の舟なら一艘残らず止める。だが疫病死者を沖へ流す筏には近づかない。黒旗は死と病の印だった。

旗の布には羊脂が染み込ませてある。水を吸わず、筏が砕けても沈まない。旗の隅には銀糸が一本だけ縫われていた。港の守将がそれを見れば、湾口の大鎖を下ろし、味方の火船を通す。

湾の水は冬でも凍らない代わりに、骨から熱を奪う。セラーノは出航前に酒を飲まなかった。酒は身体を温めるのではなく、寒さに気づくのを遅らせるだけだと漁師から教わっていた。

セラーノは筏の丸太に片腕を絡め、鼻だけを水面へ出した。上には三人の死体。敵の投石で死んだ味方の漁師たちだ。借りたのは体温ではなく、恐怖だった。

第一の巡視船は帆を遠ざけた。第二は鐘を鳴らし、祈りを投げた。第三の船から声が飛んだ。

「焼け。風上へ病を入れるな」

敵船の甲板では、兵が鼻と口を布で覆っていた。病を恐れている者ほど、遠くから残酷になれる。

火矢が黒旗へ刺さった。羊脂が燃え上がる。沈まないための油が、今度は棺の火になった。

セラーノは筏の下で短剣を使い、旗の燃えた部分を切り離した。死体が一つ海へ落ちる。巡視船の兵が笑った。

「死人が自分で旗を捨てたぞ」

櫂が近づく。水中から覗けば、船腹にフジツボが白く並んでいた。セラーノは息を止め、筏を離した。黒旗の残りを胸へ抱え、巡視船の真下を泳ぐ。

槍が水を刺した。一本が脇腹を裂いた。血が広がる。鮫より先に、兵が気づく。

セラーノは海底へ沈みかけた。だが黒旗だけは浮く。彼は旗を握ったまま、潮に引かれて敵船の列を抜けた。

港の石壁へたどり着いた頃には、夜が薄くなっていた。見張りは海に浮く黒布を見て、死者だと思った。セラーノが石段へ手をかけると、弩が向けられた。

「銀糸を見ろ」

声は泡のように小さかった。

守兵が旗を引き上げ、焦げ残った隅を朝の光へかざす。一本の銀糸が光った。

沖では味方の火船が帆を張り、潮待ちをしている。敵艦隊は筏の火に気を取られていた。

港守は黒旗を胸壁へ結び、両腕を下げた。

湾口を塞ぐ大鎖が、海中へ沈み始めた。