治った弟を消さないで
薬袋禾乃の長男・時雨は、生まれつき筋肉が衰える病気だった。
治療AIは、病因遺伝子を修正した予備肉体を作り、十八歳で意識を移す計画を提示した。成功すれば歩ける。走れる。寿命も人並みになる。
禾乃は迷わず契約した。
予備肉体は「移植先」であり、人格を持たないはずだった。
ところが十三年目、管理施設が子どもの認知発達を促すため、限定的な会話AIを接続した。時雨は端末越しに自分の体と話すようになった。
予備個体は「律空」と呼ばれた。
律空は歩けた。時雨が見たことのない校庭を走り、転び、膝を擦りむいた。毎晩、その映像を時雨へ送った。
「僕の代わりに練習しておくよ」
律空は無邪気に言った。
移植予定の半年前、時雨が拒否した。
「律空を消して僕が入るなら、治らなくていい」
禾乃は叱った。あなたを助けるために十三年払った、弟ではなく体だ、と。
時雨は車椅子から彼女を見上げた。
「じゃあ僕も、壊れた体ってだけ?」
その言葉で、禾乃の中の何かが止まった。
彼女は息子を病気から救うことだけを考え、病気のまま生きてきた十三年を、仮の時間として扱っていた。誕生日も、友達も、絵の賞も、すべて「治ったあと」の前座にしていた。
施設は契約違反を警告した。律空に人格権を与えれば、移植用資産を失う。時雨の余命は十年以下。
禾乃は二人を面会させた。
同じ顔の少年たちは、しばらく何も言わず見つめ合った。やがて律空がしゃがみ、時雨の靴紐を結んだ。
「僕の筋肉、少しずつなら分けられる?」
全身交換ではなく、幹細胞治療を繰り返す方法なら、進行を遅らせられる。ただし律空にも負担が残る。
二人は自分たちで同意書へ署名した。
律空は禾乃の次男として家に来た。
兄を背負って階段を上る日もあれば、喧嘩して置き去りにする日もあった。時雨は完治しなかった。律空も陸上選手にはなれなかった。
それでも十八歳の誕生日、二人は並んで卒業写真に写った。
禾乃はその写真を見て、初めて「治らなかった未来」を失敗だと思わなかった。
息子の人生は、健康になってから始まるのではない。
その当たり前を教えたのは、息子になるはずの体だった。