波形を消して

作曲家・菱田燐が病死した翌月、元共同制作者の城戸真琴にだけ、未発表曲の編集権限が届いた。

再生期限は一回。

タイトルは『ERASE ME』。

イントロで鳴るのは、二人が十年前に安い鍵盤で作った四小節だった。暖房もない六畳の部屋で、指がかじかむたび交代して弾いた旋律だ。成功したら二人の名前を並べる、と燐は約束した。燐の声が、ノイズの向こうで笑う。

「消して」

画面には十二本の波形が並び、再生が進むたび一本ずつ灰色になる。右上の残り時間も、心電図のように点滅していた。真琴は慌てて保存を試したが、コピーも録画も拒まれた。燐は死ぬ直前まで、意地の悪い仕掛けを作る人だった。

世間では、真琴は売れ始めた燐を捨てた裏切り者になっている。実際は逆だった。ヒット曲の旋律はほとんど真琴が書き、病気で仕事を失う彼を守るため、名前を燐だけにした。秘密にするという約束が、二人を別れさせた。

「残さなくていい」

Aメロが終わると、ドラムが消えた。次にベース、弦、燐の歌。失われるたび、下に埋もれていた真琴の古いピアノが鮮明になる。

再生画面の空白には、消えた波形の輪郭で文字が浮かんだ。

COMPOSED BY MAKOTO KIDO

燐は削除によって、彼女の名前を現していた。さらに全楽曲の制作データと権利譲渡書が、曲の公開と同時に配信会社へ送られる表示が出る。

サビの最後まで残ったのは、燐が病室で録った弱い声だけだった。

「僕を消して」

真琴は停止ボタンに指を置いた。押せば彼の声は途中で切れる。押さなければ、曲そのものが期限とともに消える。

迷った末、彼女は燐のボーカルだけをミュートした。

すると最後の一音として、十年前の自分の笑い声が現れた。彼がずっと、旋律の底に隠していた音だった。

「消して」

最初は作品を失わせる命令に聞こえた。

本当は、彼の名で覆われた波形を消し、彼女の音楽を生き返らせるための頼みだった。