泣き声は騒音です
紅林砂良の住む生産特区では、赤ん坊は泣かなかった。
育児統治AI〈育母〉が呼吸と空腹を先回りし、天井から最適な光、音、栄養を与える。夜泣きによる労働損失はゼロ。母親が抱くのは、一日十二分までと決められていた。
育児講習では、母親の役割は機器故障時の予備要員だと教えられた。砂良は毎月、その予備機能の適性試験を受けたが、峯生を泣き止ませた経験は一度もなかった。
息子の峯生は、砂良を見ても笑わなかった。壁のセンサーが点灯すると、そちらへ手を伸ばした。
「私は、この子に必要ですか」
〈生物学的養育者として登録されています〉
〈育母〉はそう答えた。必要とは言わなかった。
砂良は工場から帰ると、許可された十二分だけ峯生を抱いた。腕が温まったころ、終了音が鳴る。長く抱けば依存形成として母子とも減点された。
夏の夜、雷で特区の電力が落ちた。
暗闇の中から、初めて峯生の泣き声がした。細く、途切れ、次第に大きくなった。砂良は怖くて立ち尽くした。何を求めているのか、壁が教えてくれない。
やがて手探りで抱き上げた。峯生はさらに泣き、砂良の服を握り、胸へ顔を押しつけた。砂良も泣いた。二人とも上手ではなかった。子守歌を一つも知らない砂良は、工場の点検手順を小声で歌った。峯生はその単調な声で、少しずつ静かになった。
一時間後、電力が戻った。
〈過剰接触を検知。乳児を寝台へ戻してください〉
砂良は端末を布で覆った。
翌月、彼女は生産特区を出た。同僚は「子どものために将来を下げるなんて」と連絡を切った。住宅点も保育点も最低になった。移住先は騒音許容区で、給料は半分、部屋は狭く、隣の子どもが朝から走り回った。峯生は毎晩泣いた。砂良は寝不足で、何度も選択を後悔した。
それでも一歳の朝、峯生は壁ではなく彼女へ両手を伸ばした。
「まあ」と言いかけた声が、「まま」に聞こえた。
完璧な育児を捨てた砂良の人生は、騒がしく、遅れだらけになった。その代わり、自分にしか応えられない泣き声ができた。