泣けない聖女

娘の胸には、黒い花が咲いていた。

花弁が一枚開くたび心臓が遅くなる。あと一枚で止まる。

ヘルミアは寝台の横に膝をつき、《無情》を抜いた。この剣は呪いを必ず断つ。その代わり、使い手から「剣を抜かせた感情」を奪う。

怒りで抜けば怒れなくなる。恐怖で抜けば恐れなくなる。愛で抜けば、愛せなくなる。

「お母さん」

娘は浅い息で笑った。

「私のために抜いたら、私のこと嫌いになる?」

「嫌いにはならない」

それは嘘ではない。嫌うことと、愛せないことは違う。

黒い花の根は胸骨の内側へ絡み、普通の術では届かない。剣先を当てれば、一太刀で終わる。ヘルミアの手が震えているのは、娘を失うのが怖いからではなかった。失わずに済んだあと、自分が何者になるか分かっているからだった。

娘は枕の下から、小さな布人形を出した。幼いころヘルミアが縫ったものだ。片目が曲がり、腕の長さも違う。娘は幼いころ、それを『お母さんに似て不器用だけど強い』と名づけ、眠るたび胸へ抱いた。ヘルミアは何度もほつれを直し、そのたび少しだけ形を悪くした。

「これ、覚えてて」

「覚えている」

記憶は奪われない。だから残酷なのだ。抱いた夜も、初めて歩いた朝も、熱にうなされた額も、すべて覚えたまま、それらを大切だと思う力だけが消える。

最後の花弁が開き始めた。

ヘルミアは娘を愛していた。その感情だけを刃へ集める。胸が裂けそうなほど強く思い、剣を振り下ろした。

黒い花が音もなく二つに割れ、灰になった。

娘の心臓が力強く打つ。

「お母さん!」

細い腕が首へ回された。

ヘルミアはその温かさを知っていた。抱き返すべき角度も、背を撫でれば安心することも、記憶が教えてくれる。

けれど胸は静かだった。

娘が泣きながら笑う。ヘルミアは手順どおりに抱き返した。人形を拾い、埃を払い、枕元へ置く。完璧な母親の動作だった。

「助かって、うれしい?」

問われて、彼女は答えを探した。

言葉なら知っている。表情も作れる。

だが涙だけは、もうどこにもなかった。