海抜ゼロの声

港のスピーカーから、三日前に失踪した歌い手の声が海へ向かって流れた。

救難員の水主町凛久は、再生許可を出した覚えがない。曲は汀キサの未発表データ。イントロには低い脈動があり、岸壁の鉄板まで震わせた。

歌詞表示は一行だけ。

「深く聴いて」

キサは海辺のイベント後、控室から消えた。靴と上着が防波堤で見つかり、警察は転落を疑った。凛久は捜索艇で湾内を探したが、潮が速く、手掛かりはなかった。彼女とは幼なじみで、子供の頃から海中の音を当てる遊びをしていた。目を閉じたキサは、錨と魚群と空洞を、響きだけで言い当てた。

「深く聴いて」

Aメロで、曲の低音に遅れて小さな反響が返る。スピーカーの音が海面を伝い、港の構造物に当たっている。凛久が水中マイクを沈めると、反響はより鮮明になった。一定の場所だけ、空洞を示す乾いた響きがある。

サビで低音が階段状に下がる。音程は水深を示していた。海図へ重ねると、旧防波堤の下にある工事用ケーソンへ線が伸びる。そこは事故で封鎖され、内部に空気室が残っている可能性があった。潮位計の数字は、曲が始まった時刻だけ不自然に手入力へ切り替わっている。

イベント責任者が放送を止めろと命じた。キサは自分から海へ入った、騒ぎを大きくするなと言う。だが曲の背後で、同じ男の声が聞こえた。

〈ここで少し頭を冷やせ〉

〈扉は潮が引けば開く〉

責任者は口論したキサをケーソンへ閉じ込め、翌朝には開くと思っていた。だが扉は海圧で動かなくなったのだ。

凛久は潮流が変わる前に潜水班を向かわせた。残された時間は、曲の残り一分しかなかった。最後のサビで、キサの声が途切れ、代わりに金属を三回叩く音が返る。生きている。

最後の一音は、救助班が内側の壁から受け取った同じ三回の応答だった。

数十分後、担架で運ばれるキサが、酸素マスク越しに凛久の手を握る。再生画面には三度目の表示が残る。

「深く聴いて」

気持ちを込めて歌を聴けという比喩ではない。海面の音だけで死を決めつけず、もっと深い場所へマイクを沈めてほしいという座標だった。