消えたコメント

薬袋晴人は、大学院で学校怪談の聞き取りをしていた。廃校の教室から配信すれば、調査費の足しになると教授に勧められた。

対象は「後ろの子」という伝承だった。児童が一人欠席すると、その席の後ろにだけ余分な足音が増える。古い学級日誌の表紙裏には、卒業生の筆跡で注意が残されていた。

《通知欄から消えたコメントを、声に出して読んではいけない》

晴人は教壇にスマホを置き、空の席を順番に映した。学級日誌の出席欄は三十名分なのに、教室の机は三十一脚ある。余分な一脚だけ、どこへ動かしても最後列へ戻った。視聴者は百人ほど。コメントは軽口ばかりだった。

通知音が一度鳴った。

《うしろの子に席をゆずって》

通知のスクリーンショットを撮ると、画像には文章ではなく晴人の背中が写った。画面を開くと、そのコメントはない。投稿者名も履歴も消えていた。晴人は記録のため、ボイスメモへ一度だけ読み上げた。

「後ろの子に席を譲って」

最後列の椅子が引かれた。

次に、晴人が座っていた教卓前の椅子も動いた。見えない誰かが、後ろから順に席を詰めている。コメント欄には《一人増えた》《先生の後ろ》と流れた。

晴人は振り返らず、配信機材を置いたまま廊下へ逃げた。映像はその後も二十分続き、最後には空席が一つもなくなったという。

翌日、大学の研究室でボイスメモを確認すると、自分の読み上げの直後に子供の声が入っていた。

『ありがとう。次は外の席』

その日の帰り、駅の改札で交通系ICが反応しなかった。スマホを見ると通知が二件ある。

【大人一名が入場しました】

【小児一名が同じ定期券で入場しました】

駅員に説明している間も、背後の自動改札が誰もいないのに開閉した。

電車へ乗ると、空席は一つだけだった。晴人が座った瞬間、スマホが振動する。

【席を譲りました】

座面の奥から小さな膝が伸び、晴人を前へ押し出した。車内放送が、次の停車駅ではなく彼の名前を告げた。

「薬袋晴人さん、後ろへお詰めください」