消えた枝番

製薬会社の導出契約会議で、水無瀬圭は結晶解析室の助手として呼ばれた。新薬候補の安定結晶を海外企業へ百二十億円でライセンスする。特許の発明者は研究部長と主任の二人だった。

圭が扱った試料はB―一一四―三。主任が作ったB―一一四―二を加湿条件で再処理し、偶然、別の結晶形を見つけた。ところが特許明細書では枝番の「三」が消され、すべてB―一一四―二の成果とされている。

研究部長は、枝番は保管上の区別にすぎないと説明した。

圭はX線回折装置の監査ログを投影した。特許に記載されたピーク値は、B―一一四―三を測定した六月十八日午後七時四分のデータと完全に一致する。B―一一四―二のピークは別物だった。

さらに三の試料瓶には、圭の署名と測定開始時刻が残っている。主任の発明届は午後六時五十分に作成されていたが、そこにはまだ測っていない七時四分のピーク値が書かれている。

「予備測定で分かっていた」と主任は言った。

予備測定の記録はない。装置は電子署名なしでは起動せず、ログの削除もできない。主任のカードが装置へ入ったのは、圭の測定後だった。

海外企業の知財責任者が、契約書の保証条項を読み上げた。発明者の誤記は、各国で権利無効の争点になる。

研究部長は圭に、助手の仕事は指示された測定をすることで、発明ではないと告げた。

圭は試料瓶を透明袋へ戻した。

「では、測定前に数値を知った主任は何をしたんでしょう」

圭の雇用契約には、研究成果はすべて会社へ帰属するとある。研究部長はその条項を突きつけた。海外企業の知財責任者は、権利の帰属と発明者表示は別だと静かに返した。圭はB―一一四―三の保管記録へ自分で封印し、試料が会議後に消えないよう監査担当へ預けた。

試料瓶の封印番号も装置ログと一致し、取り違えという逃げ道はなかった。

海外企業の署名者はペンを置いた。消された枝番一つが、百二十億円の導出決裁を止めた。