港を空にした三行
久遠が海軍港へ着いたとき、沖の火山島から黒煙が上がっていた。
津波到達まで推定十八分。港には船員、商人、巡礼者、子どもを合わせて五千人いる。
ところが掲示された避難文は、古い海事語で四十七行あった。
『潮位の異常なる上昇が予見される場合においては、各位、所定の高所へ秩序を保持しつつ――』
人々は二行目で読むのをやめ、「どの高所だ」「荷物はどうする」と係員を取り囲んでいた。前回の訓練では最後の一人が出るまで十八分三十秒。今回は本物の波で、やり直しはない。
「正式な告示を勝手に削るな」
港務官が久遠の腕を掴む。
前世で災害広報を作っていた久遠は、白い帆布へ三行だけ書いた。
『津波が来る。あと十五分。
荷物を置き、北門から出る。
鐘が止まるまで、丘へ上れ。』
最初に危険、次に行動、最後に目的地。難しい語は使わない。彼は同じ三行を五十枚複製させ、目の高さへ吊るした。読めない幼児にも流れが見えるよう、すべての札の矢印を北門へ向ける。
太鼓が鳴る。
文字を見た荷役人が、抱えていた樽をその場へ置いた。母親が子どもの手を引き、北門へ走る。外国人は「北門」だけを確認し、流れに乗った。質問の列が消え、門を通る人数は一分百四十人から千百人へ跳ね上がる。係員は説明ではなく、三行を指すだけで次の人を通せた。
四分二十秒で港の広場は空になった。
最後の巡礼者が丘へ上がって三十秒後、波が防波堤を越えた。樽も屋台も流されたが、点呼板には五千二百八十一人、行方不明者零と記された。丘の上で母親が子どもの靴を履かせ直す間に、港の倉庫が波へ崩れた。誰も取り残されていない。
港務官は泥水に浸かった四十七行の告示を拾い上げる。
「正式文なら、誰も責任を問えなかった」
久遠は丘の上の人々を見た。
「読まれなければ、告示ではありません」
海軍提督が三行の帆布を外し、自分の外套で包む。
「全港の避難文を、この順番で書き換えろ」
彼は久遠の臨時通行札へ提督印を押した。
「王国緊急翻訳官として採用する。次の十八分も、お前の言葉に任せる」