湯気の向こうで魔王の雫が消えた
「能力なし。風呂焚きにもなれない冷えた男だ」
浴場組合長は、久我黎の鑑定札を湯へ浮かべた。
召喚後に宿を追われた黎は、温泉都市の共同浴場で薪を割っていた。前世では食品工場の温度管理をしていたが、火属性がなければ湯加減すら分からないと馬鹿にされた。
昼湯の鐘が鳴った直後、排水口から青いスライムが噴き出した。
泡スライムという低級魔物で、石鹸を食べるほど増殖する。客が投げた桶にも、湯船にも、見る間に青い塊が広がった。浴場組合長は熱湯を注がせたが、温められた群れはさらに膨らむ。
黎は一匹を見て気づいた。
泡の中心に、黒い雫が混じっている。隣国で封じられた魔王の体液。低級魔物を培養槽にして、温泉の地脈へ侵入しようとしていたのだ。
「全浴場を焼却する!」
駆けつけた魔術兵が杖を構えた。そうなれば、市民の生活も観光も終わる。
黎は湯温計を手に取り、黒い雫へ目盛りを合わせた。
「沸点は、物によって違う」
《沸点指定》を一度だけ行う。
都市中の泡スライムが、同時に透明になった。
熱は上がっていない。それでも魔物だけが静かに沸騰し、細かな湯気へ変わる。黒い雫は逃げるように排水路を逆流したが、空気へ触れた瞬間に蒸発し、湯気の中へ巨大な魔王の顔を一度だけ浮かべて消えた。
人も建物も濡れたまま。湯船の温度は、老人にも子どもにも心地よい四十度から一分も動いていない。
王国基準器である黄金湯温計が、存在しない温度を示して目盛りごと弾けた。
浴都を治める湯姫メルセデスが、専用浴槽から立ち上がった。侍女が慌てて外套を掛ける間も、彼女は黎から目を離さない。
「魔王を煮たのではなく、魔王だけが煮える世界にしたのですね」
組合長は湯に浮かべた札を拾おうとしたが、湯姫が先にすくい上げた。濡れた札へ王印を押す。
そこに浮かんだのは、風呂焚きではなく、浴都温度卿の文字だった。
湯気が晴れる。
裸で逃げ回っていた客たちは、笑うことも忘れ、薪割りの青年へ一斉に深く頭を下げた。