湯豆腐のひび

 小田切慧が残業を終えて帰ろうとしたとき、同棲相手から一通だけ連絡が来た。

 鍵は郵便受けに入れました。続きはなかった。部屋の冷蔵庫には、朝に二人で食べるはずだった卵が残り、洗面台には色違いの歯ブラシが並んでいるはずだった。

 昼に言い争った。最近帰りが遅いこと、休日も仕事の通知を見ていること、話しかけても上の空なこと。慧は「今だけ忙しい」と返した。相手は「その今が半年続いてる」と言った。

 会社から自宅へ向かう足が止まり、慧は途中の居酒屋へ入った。帰れば、鍵の音がしない部屋を自分で開けることになる。その数秒を先延ばしにしたかった。閉店前の店に客は一人だけだった。

 頼んだ湯豆腐が、ひびの入った浅い器で運ばれてきた。

 昆布の匂いを含んだ湯気が静かに上がり、湯の表面がふるふると揺れている。箸を入れると豆腐は抵抗なく割れ、白い断面からさらに細い湯気が立った。

 熱さを確かめず口に入れ、慧は唇を閉じた。淡い塩気より、舌を包む温度のほうが強かった。

「その器、ひびが」

 慧が言うと、店主は頷いた。

「まだ使えます。でも、熱いうちは持ち方に気をつけます」

 直せるとも、捨てるべきとも言わなかった。

 慧は鍵のメッセージに長い返事を書きかけた。仕事を理解してほしい。忙しい時期を支えてほしい。自分の努力も見てほしい。自分だって好きで残っているわけじゃない。転職も簡単ではない。どれも本当で、今送れば全部言い訳になる。

 文章を消し、「明日、半休を取る。直接話せる時間をもらえないか」とだけ送った。朝一番で上司へ申請し、断られたら休暇の残日数を確認する。相手が会わないと言えば、部屋に残った荷物を勝手に引き留めない。

 話しても別れるかもしれない。鍵が戻るとは限らない。半年のひびは、一度の半休では塞がらない。仕事の量もすぐには減らず、慧が帰宅時間を変えられる保証もない。話すことは修理ではなく、壊れ方を二人で確かめるだけかもしれない。

 最後の豆腐は少し形を崩し、湯の底へ沈んでいた。すくって飲み込むと、昆布の淡い味と熱が、ひびのある器からまっすぐ伝わってきた。