満タンではないタンク
大庭琢海のバイクが止まったのは、よりによって父の整備工場から二百メートルの場所だった。押して通り過ぎるには坂がきつく、別の店を呼ぶには自尊心が邪魔をした。
三年ぶりにシャッターをくぐると、誠吾は作業台から顔も上げなかった。
「音は」
「信号待ちで回転が落ちた」
「その前」
「息継ぎ」
「キャブだ。押せ」
父は昔と同じ油染みのつなぎだった。琢海は写真の仕事で地方を回り、父はそれを「旅」と呼んだ。家業を継がないと告げた日、「遊びに工具は貸さない」と鍵を替えられた。
二人でタンクを外し、キャブレターを開けた。細いジェットに汚れが詰まっている。誠吾がエアを吹き、琢海が部品をトレーへ並べる。
「順番、覚えてるな」
「忘れるほど頭悪くない」
「写真じゃ食えんだろ」
「その話なら帰る」
「バイクは置いてけ」
「何で」
「帰れないからだ」
誠吾の口元が少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。琢海は腹が立ち、同時に肩の力が抜けた。
組み直してエンジンをかける。低い振動が床から足へ上がった。誠吾は耳を近づけ、スロットルを一度だけ煽る。
「まだ薄い」
「分かる?」
「お前が生まれる前から聞いてる」
二人で再調整した。二度目の音は滑らかだった。琢海が財布を出すと、誠吾は手を油で汚したまま振った。
「部品代」
「掃除しただけだ」
「工賃」
「客からは取る」
「俺は客だろ」
「客は勝手に工具の位置を知ってない」
それ以上は言わなかった。
外は夕暮れだった。琢海が跨がると、燃料計の針が半分まで上がっている。来たときはほとんど空だった。
「満タンじゃないんだ」
「古いタンクに入れすぎるな」
「街までなら四分の一で足りる」
「そうだな」
誠吾はシャッターを半分下ろし、内側から言った。
「片道ならな」
琢海はミラー越しに工場を見た。半分の燃料で、街まで行って、ここへ戻ってこられる。エンジンを止めずに一度だけ頷き、坂を下った。