潮風に混ぜる胃薬
相馬あずさの胃薬は、港の潮風で仕上がる。
窓辺に並べた陶器壺へ、乾燥生姜、海茴香、焼いた貝殻粉が自動匙で落ちる。昼の潮なら船酔い用、夕潮なら食べすぎ用、嵐の前は緊張で胃を痛める船員用。風車が壺をゆっくり回し、粉薬を紙包みへ分ける。包みは港の食堂と船具店へ転送される。
あずさは、味見係ではない。
前にいた大衆食堂では、調理服の腰が台の角に擦れて破れ、前掛けは油で重かった。皿洗い、仕込み、会計、酔客の介抱まで一人で回し、胃を壊しても『賄いを食べすぎたんだろう』と笑われた。退職後も端末には『団体船入港』『厨房一名欠勤』が未読で並んでいる。
夕方、風車の羽根から硬貨の音がした。
《港内三店舗への納品完了。今週分の販売益を送金》
豪華な暮らしはできない。だが、自分の夕食を座って食べるには十分だ。
ちょうど魚を焼き始めたところで、元店長から通話が入った。
『今夜、遠洋船が二隻入る。百人前だ。お前なら厨房を仕切れる、すぐ来い』
「行きません」
『港の仲間が困っている』
「私が困っていたとき、休ませてくれませんでしたよね」
『昔の話をするな。日当は上乗せする』
あずさは網の上の魚を裏返した。皮がぱり、と気持ちよく鳴る。
「私の今夜は売り切れです。胃薬なら食堂へ届いています」
通話を切り、端末を粉薬の空箱へしまった。壺は潮風を受けて淡々と回り続ける。
食堂を辞めてしばらく、あずさは食卓へ座ると落ち着かなかった。客の水が空ではないか、鍋が焦げていないか、呼ぶ声がしたのではないか。自宅なのに、三口ごとに立ち上がった。自動壺を完成させた日、彼女は初めて一杯の粥を最後まで座って食べた。胃薬が売れたことより、冷める前に自分の食事を終えたことを日記へ書いた。以来、収益の一部は必ず魚と米に替える。暮らすための薬が、暮らす時間を奪ってはならない。
あずさは焼けた魚を皿へ移し、温かいうちに箸をつけた。誰かの追加注文で立ち上がることなく、骨の際の身までゆっくり食べるつもりだった。