火星の縁側

鮎川真朱は、火星生まれなのに地球を懐かしがった。

赤い砂しか知らない彼女が恋しく思うのは、夏の畳、蝉の声、縁側で食べる冷えた桃だった。移民支援AIに勧められ、記憶市場で買った「日本の田舎・祖母の家」という体験のせいだ。

十五歳の真朱は、学校から帰るたび記憶を再生した。低重力の居住区が消え、素足に畳の目が触れる。顔の見えない祖母が「おかえり」と言う。その声だけが、忙しい母より自分を待ってくれている気がした。

母は地球を知らない。火星第一世代として、氷採掘場で働きながら真朱を育てた。二人の家には縁側も桃もなく、食卓には栄養藻のスープが並んだ。

「そんな偽物ばかり見ていると、ここで生きられなくなるよ」

母が端末を取り上げた夜、真朱は初めて「地球に帰りたい」と叫んだ。

帰る、という言葉に母の顔が歪んだ。

記憶の販売者を調べると、地球の高齢者ではなく、火星移住を拒否した少女だった。彼女は重い病気の治療費を得るため、祖母との夏を売った。その後、記憶を失ったまま地球で亡くなっていた。

真朱が懐かしんでいた故郷は、誰かが生きるために手放した場所だった。

彼女は再生をやめようとした。だが蝉の声がない夜は眠れず、顔のない祖母に会えないと胸が空いた。依存治療の面談で、真朱は初めて母へ尋ねた。

「私が生まれた日のこと、売ってない?」

母は笑った。出産時の酸素不足、停電、真朱の弱い泣き声。市場価値のない、失敗だらけの記憶だった。

二人はその夜を共有再生した。赤い非常灯の下で、若い母が小さな真朱を抱き、「ここをあなたの故郷にする」と何度も言っていた。

真朱は購入した田舎の記憶を削除しなかった。学校の温室に桃の木を植え、縁側に似た板張りのベンチを作った。実がなるまで十二年かかるという。

最初の花が咲いた日、真朱は母と並んで薄い空を見た。

借りた懐かしさは、もう逃げるための過去ではない。まだ誰も覚えていない火星の夏を、これから作るための設計図になっていた。