火男のパンは冷めてから

母のベーカリーを閉める前夜、紬は最後の食パンを焼いた。

けれど窯から出した瞬間、母の味ではないと分かった。

「冷めたら終わりだ」

誰もいないはずの厨房で声がした。

窯の前に、煤けた前掛けと焦げた鍋つかみをした男が座っている。口元から細い火が漏れていた。

火のあやかし、炉生は、母が生前「窯番」と呼んでいた存在らしい。ただし人間のことは、火加減も守れないくせに思い出だけ美化するから嫌いだと言った。

紬は母のレシピ帳を開いた。

粉も水も発酵時間も、数字どおりにした。それでも香りが違う。母の死後、会社を辞めて店を継ごうとしたが、毎日「前のほうがおいしかった」と言われるのが怖くなった。

「この味を直してください」

「人間の記憶は、窯より温度が高い。直せん」

「じゃあ店を閉めます」

「好きにしろ。人間の店など、一軒減れば静かになる」

炉生は冷たく言いながら、食パンを網の上へ移した。紬が切ろうとすると、焦げた鍋つかみで手を払う。

「冷めたら終わりだ。だから終わるまで待て」

二人は閉店後の店で、何もせず一時間待った。

パンの湯気が消え、窓が曇らなくなる。炉生は端を厚く切り、焼かずに紬へ渡した。

一口で、紬は足を止めた。

母が売り物にならない端を朝食に出してくれた味だった。店頭の焼きたてではない。閉店後、二人でレジを締めながら食べた、少し乾いた味。

「同じじゃない」

「同じ火は二度と出ない」

「でも、知ってる味です」

「お前が知っている。なら、それで十分だ」

炉生はレシピ帳の余白へ、炭になった指で一行書いた。

――翌朝、端を食べてから決める。

紬は閉店の貼り紙を剥がさなかった。代わりに、その下へ「週三日、朝だけ」と書き足した。

帰り際、炉生へ礼を言うと、彼は窯の奥へ戻りながら、いつもの言葉を吐いた。

「冷めたら終わりだ」

そして焦げた鍋つかみを、紬の手へ押しつける。

「終わった味からしか、始められない朝もある」

翌朝、店先には三人だけ並んでいた。

紬は冷めたパンの端を食べ、窯へ火を入れた。