炎鼬は売れ残りパンを選ぶ
王都一まずいと評判のパン屋へ、炎鼬が突っ込んできた。
赤金の毛を逆立てた神獣が床を踏むたび、焦げ跡がつく。客は窓から逃げ、向かいの店主は「とうとう店ごと焼かれるぞ」と笑った。
店番のパルマは逃げなかった。
逃げ道を塞がれたのではない。炎鼬の視線が、ずっと棚の下の籠へ注がれているのに気づいたからだ。
そこには売れ残った黒パンがあった。
固すぎる、地味すぎると返品された品だ。
パルマは朝から一つも売れず、閉店の札を出すところだった。けれど炎鼬の鼻は、砂糖菓子の並ぶ向かいの店ではなく、その籠だけを追っている。焦げ臭さの中に、空腹で酸っぱくなった息まで混じっていた。
ぐるるる、と炎鼬の腹が鳴る。
同時に口の端から火が漏れ、床板がじゅっと焦げた。外では衛兵が消火樽を並べ始める。
「お腹が減ると、火が出ちゃうの?」
炎鼬が恥ずかしそうに耳を伏せた。
パルマは黒パンを薄く切り、山羊乳へ浸す。鍋で温め、最後に蜂蜜を一筋だけ落とした。豪華な供物ではない。昨日のパンを無駄にしないため、母から教わった食べ方だった。
皿を床へ置く。
炎鼬は最初、疑うように匂いを嗅いだ。ひと舐めし、次の瞬間には皿ごと抱える。熱い舌で器を舐めるたび、縁が赤く光った。パルマが木匙で混ぜて冷ますと、神獣はその手元を行儀よく待つ。
夢中で食べるたび、逆立っていた毛が一本ずつ寝ていき、口から漏れていた炎も蝋燭ほどに小さくなった。
「まだあるよ」
籠いっぱいの黒パンを煮る。
外の衛兵は突入の号令を待っていたが、店内から聞こえるのは、匙が鍋に当たる音と神獣の満足そうな鼻息だけだった。
最後の一切れを食べ終えると、炎鼬はパルマの前で長く伸びた。
腹を上にし、短い前脚を揃える。
向かいの店主が窓越しに「餌付けしただけだ」と吐き捨てた。
その瞬間、炎鼬の額から金の火花が飛び、パルマの古い店看板へ新しい紋章を焼きつけた。王家すら得られなかった神獣の加護印だ。
けれどパルマは看板を見ていなかった。
膝へ乗ってきた炎鼬の頭が、思ったより丸かったからだ。撫でると赤金の毛は焼きたてのパンの表面ほど温かく、鼻先から伝わる満腹の息が、薄いエプロンをふわりと膨らませた。