無音の下校放送
下校時刻の五分前、放送委員の鵜飼野真帆路は、流すはずの音楽が消えていることに気づいた。
パソコンの画面には「ファイルが破損しています」。
毎日午後五時半、決まったピアノ曲を流す。曲が終わるまでに部活動を切り上げ、校門へ向かう。それが学校の夕方の合図だった。
顧問は会議中。予備のCDは見つからない。
「歌えば?」
後輩が冗談で言った。
「全校に?」
「鼻歌でも」
「明日から学校来られない」
時計は五時二十九分。
真帆路はマイクのスイッチを入れた。
「下校時刻をお知らせします」
そこまでは原稿どおりだった。
続きがない。
放送室の窓の外で、野球部のボールが金網へ当たった。
カン。
音がマイクへ入った。
次に、廊下を美術部の台車が通る。車輪が一度だけ軋む。遠くで吹奏楽部のトランペットが短く音を外し、誰かが笑った。
真帆路はマイクを切らなかった。
後輩が小声で訊く。
「何してるんですか」
「放送」
「何も流してない」
「流れてる」
校舎の音が、校舎へ戻っていく。
ほうきが床を掃く音。体育館のバスケットボール。図書室の返却ワゴン。階段を駆け下りる足音。運動場で「ラスト一本」と叫ぶ声。
いつも音楽に隠れていた放課後が、スピーカーから聞こえた。
生徒たちは不思議に思ったのか、少しずつ声を止めた。すると今度は、窓を揺らす風と、校旗の金具が鳴る音まで届いた。
一分後、真帆路は言った。
「以上、本日の下校放送を終了します」
スイッチを切る。
放送室が急に狭くなった。
校庭では練習が終わり、部員たちが門へ向かい始めた。誰かが窓を見上げて手を振る。
翌朝、顧問に呼ばれた。
「昨日の放送、苦情が一件」
「すみません」
「曲名を教えてほしい、だそうだ」
真帆路は答えられなかった。
あれは録音していない。もう同じ順番では鳴らない。
その日、音楽ファイルは直った。
午後五時半、いつものピアノ曲を流しながら、真帆路はフェーダーの横へ小さく書いた。
『無音も一曲』
卒業後、あの曲の旋律は思い出せなくなった。
けれど金網へ当たった一球の音だけは、今も放課後の始まりのように胸で鳴る。