猫の水は窓際に
桜庭凪沙は、友人から猫の水皿を移してほしいと頼まれた。
「冷蔵庫の横から、窓際へ。白い鉢の隣」
友人の部屋では、老猫のモナが冷蔵庫の前に座っていた。水皿は足元にあるのに、舐めようとしない。
モナは十六歳で、友人が大学を卒業した年から一緒にいる。凪沙が遊びに来ても膝には乗らず、帰ろうとするとだけ玄関を塞ぐ猫だった。今日は凪沙を見ても動かず、冷蔵庫の低い振動に耳を伏せている。
「場所なんて関係ある?」
「冷蔵庫、買い替えてから音が大きいでしょ。あの子、耳がいいから」
ベッドに横たわる友人は、猫より小さな声で言った。医師が今夜の可能性を口にしてから、凪沙は何を話しても大げさになる気がして、猫のことだけを聞いていた。
水皿は青い陶器で、縁にひびが一本ある。凪沙が持ち上げると、モナは二歩だけ下がった。水には細い毛が浮いていた。
「新しい皿にしなくていい?」
「それ、ひげが当たらない深さだから」
友人は、猫が残される先も、餌の銘柄も決めていた。ただし凪沙へ頼んだのは、その相談ではなかった。今日の水を、飲める場所へ置くことだけだった。
「替えるね」
「水道の最初の冷たいの、十秒流してから」
凪沙は言われた通り、蛇口を開けて数えた。友人は途中で咳き込み、七の次を言わなかった。凪沙が十まで数え、水皿をすすぐ。新しい水を八分目まで入れた。
窓際には、白い植木鉢が二つ並んでいた。間は狭く、水皿を置くとカーテンに触れる。鉢を動かそうとすると、友人が首を振った。
鉢の土には、モナが掘らないよう丸い石が敷かれている。凪沙は落ちていた一つを拾い、元の隙間へ戻した。
「鉢はそのまま。皿を少し斜めに」
凪沙はカーテンの裾を窓枠へ挟み、水皿を鉢の手前に置いた。床板がわずかに傾いていて、水面が片側へ寄る。薄いコースターを下へ挟むと水平になった。
モナはすぐには来なかった。冷蔵庫の低い唸りだけが部屋を満たした。凪沙は水皿の位置を一センチずつ変えた。窓から吹く風が強すぎないところ、白い鉢の葉が影を落とすところ。
やがてモナが歩いてきた。皿の前で鼻を近づけ、ひげを広げる。
凪沙は手を離した。猫の舌が一度、水面を丸くへこませた。