発酵室の七日間
祖父のパン屋が閉店するまで、あと一日だった。
孫は最後の食パンを自分で焼きたいと言った。
祖父は「十年早い」と断った。
孫は二十七歳で、十年前にも同じことを言われている。
閉店前夜、二人で生地を発酵室へ運んだ。
扉を閉めると、外の十分が、中では一日になった。
祖父は時計を見て、黙って粉袋を開けた。
「七日あれば、少しはましになる」
「さっき十年って」
「七日で十年分怒鳴る」
一日目、生地は膨らまなかった。
二日目、塩を入れ忘れた。
三日目、孫は祖父の計量を盗み見ようとして叱られた。
祖父はすべて手の感覚で入れるので、見ても分からなかった。
四日目、孫が聞いた。
「どうして店を閉めるの」
「客が減ったから」
「嘘だ」
「腰が痛いから」
「それも半分」
祖父はしばらく生地をこねた。
「お前が継ぐと言うのを、待ちすぎたからだ」
孫は腹を立てた。
継げと言われたことは一度もない。
祖父は、言わなくても分かると思っていた。
孫は、止められないのは期待されていないからだと思っていた。
二人はパンより長く、互いの言葉を発酵させすぎていた。
五日目、祖父は初めて分量を紙に書いた。
ただし「水、天気による」「塩、指二本分」「待つ、急がない」としか書かれていない。
孫は役に立たないと怒りながら、その紙を胸ポケットへ入れた。
六日目、食パンが少しだけうまく焼けた。
七日目、祖父が何も言わず横で見ている中、孫は一人で生地を作った。
形は歪み、焼き色も片側だけ濃かった。
祖父は一口食べた。
「十年早い」
「十年後も言うつもりだろ」
「店があればな」
扉を開けると、外では七十分しかたっていなかった。
閉店日の朝、歪な食パンを店頭へ並べた。
常連客は祖父のパンと間違えず、「新しい味だね」と笑った。
完売したのは昼過ぎだった。
店は予定通り一度閉めた。
三か月後、孫が土日だけ営業を再開した。
祖父は客として来て、毎回「十年早い」と言った。
そのくせ閉店後には発酵室へ入り、翌週の分まで細かな文句を置いていった。
不思議な時間はもう流れない。
一日は一日で、パンは待ちすぎれば酸っぱくなる。
だから二人は、言いたいことを翌週まで寝かせないようになった。