百科事典の陰で
校内マラソンで転んだあと、彼は図書室の百科事典の陰に隠れた。
走る前まで優勝候補だった。先頭で校門を曲がり、最後の坂で足をもつれさせた。後ろの全員に抜かれ、膝を血で赤くして戻ってきた。
クラスメートは「惜しかった」と言った。先生は「よく完走した」と言った。どちらも聞きたくなかったらしい。
私は救護係の腕章をつけたまま、図書室まで追いかけた。
辞典棚の隅から、靴だけが見えていた。隠れるには大きすぎる体だった。
「消毒、まだ途中」
返事はない。
私は重い百科事典を三冊、床へ並べた。彼の前に小さな壁ができた。
「何してる」
やっと声がした。
「もっと隠してる」
「見つけてるじゃん」
「私は救護係だから数えない」
彼は膝を抱えた。傷より、制服の袖で乱暴に拭いた目のほうが赤かった。
「笑えば」
「転んだ人を?」
「一位とか言ってたのに、最下位」
私は百科事典の「ま」の巻を開いた。
「マラソン。長距離を走る競技」
「知ってる」
「最下位については載ってない」
「当たり前だろ」
「百科事典にも載らないこと、そんなに気にする?」
彼は呆れた顔をした。
本当は、気にするに決まっている。毎朝練習し、靴を選び、クラスのみんなに期待されていた。それが転倒一つで消えたように感じている。
私は「し」の巻も開いた。
「失敗。目的を達成できないこと」
「載ってるのかよ」
「今、作った」
彼が少し笑った。
図書室は大会後のざわめきから遠かった。窓の外で表彰式の準備が進み、放送委員がマイクを試している。
「完走したの、すごいと思う」
私が言うと、彼はまた顔を伏せた。
「そういうのが嫌だ」
「じゃあ、悔しかったね」
彼の肩が一度だけ揺れた。
「……うん」
励ますより先に言うべき言葉だった。
私は百科事典の壁の外へ座り、消毒液と絆創膏を差し入れた。彼は自分で傷を洗った。
表彰式が始まり、優勝者の名前が校内放送で流れた。彼は耳を塞がなかった。静かに聞いていた。
しばらくして、百科事典を一冊ずつ棚へ戻した。
「もう隠れなくていい?」
「まだ顔ひどい?」
「百科事典には載せられない程度」
彼は笑い、図書室を出た。
翌朝、校門前を走る彼を見た。膝には大きな絆創膏。速さはいつもより遅かった。
私は窓から手を振った。彼は立ち止まらず、片手を上げた。
一位へ戻るためではなく、転んだ場所から続きを走るための朝に見えた。