盗作を拒む古インク壺

職人街の古道具店〈消えない染み〉を営むベクタは、前世で売れない菓子職人だった。

だからこそ、誰かが何年も試し、焦がし、捨て、ようやく作った一行の重さを知っている。店には剣よりも、使い込まれた筆記具が多かった。

菓子職人ピノワが飛び込んできたのは、王都菓子祭の審査前夜だった。

「私のレシピを盗んだ人が、先に登録しました」

彼女が三年かけて完成させた月蜜菓子の配合を、雇い主が自分の名で提出した。元の手帳まで奪われ、明日同じ菓子を出せば、逆に盗作者として追放される。

「過去を映す水晶は高すぎて買えません。書いたのが私だと証明できる物は?」

ベクタは、乾いてひび割れた黒いインク壺を取り出した。

「このインクは、文章を考えた者の手では黒く、写しただけの者の手では透明になります」

「今から書いても、登録日は変わらない」

「レシピは材料の列ではありません。作った者にしか書けない失敗まで記してください」

ピノワは羽根ペンを取り、砂糖を入れる順番、七度目に鍋を割った温度、雨の日だけ蜜を一滴減らす理由を書いた。文字は艶のある黒に染まった。

ベクタが同じ文をなぞると、インクは紙に触れた瞬間消える。

さらに、盗まれた登録証の写しへ一滴落とすと、表面の配合だけが透明になり、下から削られたピノワの試作番号が浮かんだ。雇い主は完成形だけを写し、失敗の履歴を知らなかったのだ。

「審査員の前で、同じ温度の理由を聞かせてください」

彼女の目から迷いが消えた。

翌夕、ピノワは優勝者の銀匙を首に下げて戻った。審査で雇い主は工程を説明できず、登録は取り消された。彼女の菓子は本人名義で王室納入品になったという。

ピノワは代金と、月蜜菓子を一つ置いた。

「商品は一つだけのつもりでしたが、これも受け取って」

「菓子は代金になりません」

「では、最初の常連への試食です」

彼女がインク壺を胸に店を出る。ベクタが菓子を一口かじると、焦がし蜜の苦みのあとに、勝ち取った甘さが広がった。

その余韻が消える前に、二度目のドアベルが鳴った。