眠る人の傘
眠っている人の傘が、床をゆっくり転がってきた。
蘭の靴先へ触れ、そこで止まる。透明なビニール傘の柄は濡れていて、天井の照明を細く反射していた。
向かいの座席では、コート姿の女性が腕を組んだまま眠っている。電車が加速すると体が少し傾き、減速すると戻る。空調の風で前髪が揺れても起きない。
蘭は傘を拾わず、靴の側面で押さえた。
引っ越してから一か月、眠りが浅い。新しい部屋の冷蔵庫が回り始める音、上の階の足音、遠くの救急車。どんな小さな音にも目が覚める。終電では眠気があるのに、乗り過ごすのが怖くて目を閉じられなかった。
車輪が回る。たたん、たたん。ドア上の表示が次の駅へ変わる。雨粒が窓を流れ、傘の先からも一滴落ちる。女性はまだ眠っている。
次の駅の案内が始まると、女性の肩が動いた。目を開け、足元を探し、傘がないことに気づく。蘭が靴を少し引くと、傘は振動で女性のほうへ戻った。
「あ、すみません」
女性は小声で言い、柄をつかんだ。
蘭は首を横に振った。それだけだった。
女性は次の駅では降りなかった。傘を膝へ抱き、今度は目を開けたまま窓を見ている。蘭も正面を見た。会話を続ける理由はないし、名前を知ることもない。
それでも、さっきまで床を転がっていた傘が、持ち主の腕の中へ戻っている。蘭の靴先には濡れた細い線だけが残った。女性の呼吸はまだ少し眠たげで、空調の音と重なったり離れたりしている。
誰かが無防備に眠れるほど、今夜の車内は一定の速さで走っていた。蘭は初めて背もたれへ頭をつけた。
終電が蘭の駅へ近づく。モーターの音がゆるみ、車内の照明がホームの白さへ溶けていく。
眠れない夜を、今すぐ治す必要はない。冷蔵庫が回れば回ったと分かればよく、足音がすれば誰かが歩いているだけだと思えばいい。すべてに身構えなくても、転がってきたものを一度止めるくらいはできる。
蘭は女性より先に立ち、ドアへ向かった。背後で傘の柄が座席へ軽く当たる音がした。今夜は部屋の小さな音を、一人で聞きながら眠れそうな気がした。