禁書は元の棚へ
「読んだ本は、元の棚へ戻してください」
王立禁書庫の埃払いリュシアンは、司書よりも静かな声で注意した。
彼の一日は、羽根ばたきで背表紙を撫で、虫食いを数え、床に落ちた紙片を拾うことで終わる。司書見習いフィオは、なぜ禁書庫に剣士ではなく、眠そうな清掃員がいるのか不思議だった。
「ここ、本当に魔物が出るんですか」
「本から出るのは、たいてい埃か言い訳です」
その晩、フィオは返却台に一冊の黒い本を見つけた。題名はない。貸出票もない。開いた覚えもないのに、頁がひとりでにめくれた。
墨の塊が文字の間から盛り上がり、人の形になる。
《名喰い》。読んだ者の名前を奪い、存在ごと本の余白へ閉じ込める古代魔だ。黒い指がフィオを指すと、胸の名札から「フィ」の一字が消えた。
声が出ない。自分が誰だったかまで薄れていく。
リュシアンは羽根ばたきの柄をひねった。中から、髪の毛ほど細い銀線が伸びる。
彼は空中の一文字を、一度だけ斬った。
切れたのは魔物ではなく、黒い本に書かれていた命令文の最後の句点だった。
句点を失った文章は終われなくなる。名喰いはフィオを呑む直前の姿で固まり、墨へ戻り、頁の中へ逆流した。消えた「フィ」の字も名札へ戻る。
フィオは震えた。《文断》。書かれた運命の意味だけを切り替える、伝説の剣聖リュシアンの秘技。彼は魔王との契約書を一字斬って戦争を終え、以後消息を絶ったはずだった。
本人は黒い本を閉じ、散った墨へ吸い取り紙を置いた。床の文字片を小箒で集め、頁番号どおりに戻す。汚れた羽根ばたきを洗い、返却台の指紋まで乾いた布で拭った。
「館長へ報告します。あなたの名誉も――」
「禁書を無断で開いた報告も一緒になりますね」
フィオは口を閉じた。
消えかけた貸出票には、彼が何事もなかったように返却時刻を書き足した。時刻は閉館の三分前。規則上も、禁書は一度も棚を離れていないことになる。
リュシアンは黒い本を最上段へ収め、鎖を掛けた。振り返ると、フィオはまだ返却予定の本を胸に抱えている。
彼は冒頭と同じ穏やかな声で言った。
「読んだ本は、元の棚へ戻してください」