空欄に住む印神

市役所の申請窓口で、職員は空欄を見つけるたび書き直しを求めた。

緊急連絡先。

世帯主。

退職理由。

書類は全部埋まってこそ受け付けられると思っていた。

昼休み、朱肉の蓋を開けると、中に小さな神様が座っていた。

体は赤く、判子のように四角い。

「書けない理由を本人が口にした空欄にしか、わしは印を押せぬ」

印神はそう言い、菓子の包み紙を座布団にした。

午後、若い申請者が住宅支援の書類を持ってきた。

緊急連絡先だけ空白。

職員は、

「ご家族でも友人でも」

と書き直しを求めた。

申請者は、

「いません」

と答えた。

「一人も?」

「書ける人はいません」

職員は規則の説明をしようとした。

朱肉の中で印神が、

「今、理由を言ったぞ」

と囁く。

「該当なしでは受け付けられません」

職員が言うと、申請者は書類を引き戻した。

支援を受けるために、連絡の取れない親の番号を書く人もいるという。

だがその親へ居場所を知られたくない。

職員は初めて、空欄が怠慢ではなく、安全のための境界になることを知った。

上司へ相談した。

代替連絡先として支援機関を登録できる制度があった。

窓口ではほとんど案内されていない。

職員は申請者と一緒に支援員へ電話した。

空欄の横へ、

「連絡可能な親族なし。支援機関調整中」

と記入する。

印神が朱肉から跳び、受付印を一度押した。

次に来た高齢者は、退職理由を書けなかった。

文字にするのがつらいのではなく、会社から理由を説明されていなかった。

子育て中の申請者は、世帯主の欄で手を止めた。

別居中の配偶者との関係が未整理だった。

職員は、すぐ代わりの言葉を与えず、

「ここを書けない理由を、話せる範囲で教えてください」

と尋ねるようになった。

すべての空欄が通るわけではない。

追加書類が必要な場合も、申請できない制度もある。

それでも、埋められない事情を存在しないことにはしなかった。

年度末、印神は朱肉を食べ尽くし、机の上で薄くなった。

「もてなしは十分だ」

「何を出しましたか」

「空いている場所を、すぐ塞がなかった」

印神は最後の紙へ赤い四角を残し、消えた。

印の中には文字がない。

職員はその紙を机へ貼った。

書類の空欄を見るたび、欠けた情報ではなく、まだ言葉になっていない事情が座っているかもしれないと思い出すために。