空欄を渡す

桐生柚月は、空欄を見ると埋めずにいられない。

申請書、共有表、会議の沈黙。担当者が不在なら推測し、誰かが迷っていれば先回りして決める。そのおかげで仕事は早い。けれど最近は、帰宅してから自分が何を決めたのか思い出せないほど、他人の途中を引き受けていた。職場では「柚月さんに渡せば抜けがない」と言われる。その言葉のあとには、担当の決まっていない仕事が必ずついてきた。母の手続きも、兄へ頼む前に自分で調べ、必要書類を鞄へ詰めた。頼んで断られる場面を想像するくらいなら、最初から一人で終えたかった。先週、後輩が途中の表を渡してきたときも、質問する代わりに残りを埋めた。翌日、数字の定義が違うとわかり、柚月だけが修正のため残業した。それでも「確認しなかった」と言えば、自分の抜けになる気がして、何も言わなかった。

区民センターのコピー機で、柚月は母の介護サービス申請書を複写していた。隣では、白髪の女が木工教室の申込書を前に止まっている。黒川満里、六十八歳。緊急連絡先の欄だけが空白だった。

「そこ、書かないんですか」

柚月が訊くと、満里は首を傾げた。

「空欄って、失敗ですか?」

「提出できないかもしれません」

「じゃあ受付で訊く。わからないのに、誰かの番号を勝手に書くよりいいでしょう」

満里は申込書をそのまま持ち上げた。

「あなたも明日、一つだけ空欄のまま人に渡してみたら。教えてください、って」

柚月は苦笑した。会社でそんなことをすれば、準備不足と思われる。

満里は受付へ行き、「ここは空けたままでいいですか」と声をかけた。職員はあっさり頷き、本人の携帯番号でよいと説明した。満里は礼を言い、太い字で書き込んだ。

翌朝、柚月の机に、取引先別の売上表が届いた。一列だけ定義が曖昧だった。いつもなら過去資料から推測し、数字を揃える。今日も検索窓を開き、似た項目を探した。

手を止める。

該当のセルを黄色く塗り、空欄のまま保存する。担当の後輩へファイルを添付し、「この欄の意味を教えてください」と打った。

送信前の画面では、空白だけが不格好に目立っていた。柚月はそこを埋めずに、メールを送った。