竜学者の鱗をほどく白石湯

 高原宿《白骨庵》の店主マオは、竜学者リグナスが椅子へ座れない理由を尋ねなかった。

 背中の鱗が逆立ち、衣服へ触れるだけで血がにじんでいる。半竜族は年に一度、古い鱗を脱ぐ。しかしリグナスは論文審査のため睡眠を削り、脱皮が途中で止まっていた。

「明日、研究院で飛行実証をする。翼を開けば、この鱗が肉ごと裂ける」

 治癒魔法で固めれば痛みは止まるが、古鱗まで永久に癒着する。彼は研究者として半竜の身体を証明する機会を失う。

 マオは山肌をくり抜いた白石湯へ案内した。湯底には卵殻のような丸石が敷かれている。

「こすって剥がすのか」

「いいえ。古いものが、自分から役目を終えるまで待つ湯です」

 リグナスがうつ伏せに浸かる。白石から細かな泡が上がり、鱗と皮膚の隙間へ入った。固着した箇所だけ泡が銀色に変わり、無理に引かず縁を少しずつ持ち上げる。

「研究院では、半竜は痛みに鈍いと書かれている」

「ご本人は?」

「痛いに決まっている。だが論文に反すると笑われた」

「では、ここでは論文を湯へ入れないでください」

 リグナスは短く息を漏らした。それが笑いだと分かるまで、マオには少しかかった。

 マオは背へ触れず、温度だけを一定に保った。速効性を誇る薬より、客の身体が自分で決める時間を売るのがこの宿だった。

 一枚目が落ちるまで、かなり時間がかかった。

 からり。

 白い石の上へ、黒い鱗が滑る。続いて二枚、十枚。痛みに歪んでいた背が、落ちる音ごと緩んでいった。

「急がなくていい」

「明日の審査が」

「竜の身体を証明するのに、人間の時計へ負けますか」

 リグナスは息を吐き、初めて肩まで力を抜いた。

 途中、リグナスは眠った。鱗が落ちるたびに目を覚まして数えようとしたが、マオが「数は料金に関係ありません」と毛布を掛ける。

 最後の古鱗が落ちたのは夜明け前だった。新しい鱗は薄銀色に整い、翼が大きく開く。浴室いっぱいに風が起きたが、血は一滴も出ない。

 昼、研究院の合格証を持ったリグナスが空から戻った。料金として一枚の古鱗を差し出す。希少素材だが、マオは銀貨換算した差額を返した。

「では差額で、脱皮期の七回を予約する」

 竜学者が翼を打って飛び去る。

 舞い落ちた羽風が収まる前に、玄関の石鈴がからりと鳴った。