紫のドレスと犬の鈴

 戸川結菜は、愛犬ポポの匂いから忘れ始めた。

 写真は何千枚もある。スマートフォンは毎朝「一年前の今日」を見せ、元気だったポポを無遠慮に連れてくる。動画には鳴き声も残っている。けれど抱いたときの重さ、雨の日の毛の匂い、眠る前に三度回る癖が、少しずつ言葉だけになっていく。

 紫藤菖蒲の時計店は、葬儀場の隣にあった。菖蒲は季節を問わず紫のロングドレスを着て、腰に犬の鈴を下げている。歩くたび、低く一度だけ鳴った。

「別れは分解できません」

 ポポの鑑札を埋め込んだ置時計を見て、菖蒲は言った。

「分解しなくていいです。戻してほしいだけ」

「戻すには、どこで止まったかを見る」

 結菜は最期の散歩を話した。桜の下で歩けなくなり、抱いて帰ったこと。病院で「よく頑張った」と言い続けたこと。自分がもっと早く異変に気づけば、と今も考えること。

 菖蒲は紫の裾を払って床へ座り、時計を結菜の膝と同じ高さに置いた。犬を診るような姿勢だった。

 鑑札の裏から、小さな記憶の輪が現れる。

 雨上がりの玄関。ポポが泥だらけの足で結菜の新品のスカートへ飛びつく。怒った結菜が洗面所へ連れていくと、ポポは濡れた耳を振り、甘い草と土の匂いを撒き散らす。

 その瞬間の重さが腕へ戻った。結菜の服へ丸い泥跡を二つ付けた前足の感触まで鮮明だった。七・二キロ。温かく、少し震えている。

 結菜は泣きながら「最期じゃない」と言った。

「最期だけが別れではないので」

 菖蒲は時計を直したが、桜の下の記憶は開かなかった。

「そこも必要です」

「今は、起動するとあなたが毎日そこへ戻る」

「いつか直せますか」

「あなたがポポの話を、死んだ日から始めなくなったら」

 会計のあと、菖蒲は腰の犬鈴を外し、鑑札へ一晩だけ付けた。持ち帰る間、記憶が安定するのだという。

「大切な物では?」

「別れは分解できません」

 同じ言葉を言い、菖蒲は空いた腰を軽く叩いた。

 店を出ると鈴が鳴った。結菜は立ち止まり、ポポが散歩を催促するときの顔を思い出す。

 別れは壊して捨てる部品ではない。日々の記憶の中へ組み直し、連れて歩ける重さにするものだった。