終電後の歯科室
十三階歯科は、終電後しか診療しない。
患者は午前零時十三分までに、誰かの乳歯を一本持参する。診察台へ座ったら、封筒に歯が一本入るまで帰れない。持参した乳歯を渡せば、その歯の持ち主に関する記憶を失う。自分の永久歯を抜けば、記憶は残る。どちらを選んだか、受付で説明してはいけない。
八反田は、婚約者の乳歯を持っていた。
彼女が亡くなったあと、遺品の裁縫箱から出てきた。小さな紙包みに日付と名前が書いてある。八反田は捨てられず、三年間財布へ入れていた。思い出すたび、右下の奥歯が痛んだ。歯科医は異常なしと言い、十三階歯科の予約票をくれた。
駅前ビルのエレベーターは十二階の次が十四階である。終電が出ると、十四の表示が裏返って十三になった。
待合室には十三冊の雑誌があり、すべて表紙から人の口だけが切り抜かれていた。受付票の症状欄には、八反田の筆跡で《思い出すと噛めない》とすでに書かれている。
診療室には椅子が一台だけあった。歯科医は顔へ白布をかけ、八反田の掌から乳歯を受け取る。
「こちらを封筒へ入れれば、痛みはなくなります」
八反田は頷いた。
乳歯が金属皿へ置かれた。彼女の笑い声、傘を忘れる癖、カレーへ生卵を落とす手つきが、順番を待つ患者のように頭の中へ並んだ。
歯科医が封筒を開く。
「変更は、封をする前までです」
八反田は右下の奥歯を指した。
麻酔はなかった。痛みは正確で、逃げ場がなかった。抜ける瞬間、彼女の名前が舌の上へ戻ってきた。八反田はそれを噛まず、飲み込んだ。
封筒には自分の永久歯が入った。乳歯は返された。
一階へ戻ると午前零時十二分だった。終電はまだホームにいて、八反田は血の味を確かめながら乗った。記憶は何一つ軽くならない。空いた歯の穴へ冷気が入り、痛みだけが形を変えて残った。
財布の紙包みを開くと、彼女の乳歯が二本に増えていた。
一本は白く、もう一本は抜いたばかりのように赤い。赤い乳歯は紙の上を少しずつ動き、八反田の永久歯が入った封筒の端を、夜通し小さな音で噛み続けた。