緊急連絡先の一番目
退院窓口が閉まるまで、あと十七分だった。
文乃は会計ファイルの間から、緊急連絡先変更届を抜いた。一番上には陽平の名前と、十年前から変わらない電話番号がある。
「新しい番号、ここに書いて」
「まだ俺でいいの?」
「念のため」
「その言い方、毎回するな」
二人は二十五歳のとき、互いを緊急連絡先にした。文乃は両親と疎遠で、陽平の家族は遠方にいる。発熱で動けない夜も、財布を落とした朝も、「念のため」と位置情報を送り合った。
その関係が大切になりすぎて、文乃は好きだと言えなくなった。
断られて友達までやめられたら、救急搬送されたときに呼べる人がいない。恋よりも先に、生活が壊れる。その計算をしてしまう自分が嫌だった。
「今回も来てくれて助かった」
「虫垂炎なら誰でも来る」
「誰でもは来ないよ」
「じゃあ、俺は何」
「友達。念のための」
陽平はペンを置いた。午後五時前の窓口には、退院する人たちが列をつくっている。看護師が車椅子を押す音、会計番号を呼ぶ機械音。短い会話から逃げても、用紙は埋まらない。
「来月、転職する」
「聞いた」
「出張が増える。すぐ駆けつけられないかもしれない」
「じゃあ別の人にする」
「簡単に消すんだ」
「迷惑かけたくないから」
「俺は、迷惑かどうかじゃなく、文乃が俺を何で残してるか聞いてる」
文乃は用紙の〈本人との関係〉欄を見た。十年間、そこには〈友人〉と書き続けてきた。
「保険みたいに思ってる」
「俺を?」
「違う。友達って言葉を。好きって言って失うより、何かあったとき来てくれる人を残したかった」
窓口の職員が「まもなく受付終了です」と声をかける。
文乃はスマートフォンを開き、職場で信頼している先輩へ短い連絡を送った。事情を説明し、第二連絡先になってもらえるか尋ねる。すぐに〈もちろん〉と返ってきた。
「念のため、もう一人増やした」
「じゃあ俺は?」
「念のためじゃない」
文乃は変更届の二番目へ先輩の名を書いた。一番目には、新しい番号の陽平を残す。
関係欄の〈友人〉は消さなかった。その代わり、退院後に食事へ行く店を検索し、陽平へ候補を三つ送る。
「救急じゃなくても呼んでいい?」
「そのために番号変えたって教えた」
文乃は用紙を窓口へ提出した。
一番目の連絡先を、非常時だけの場所に閉じ込めるのをやめた。