縫い目を明日に残す

加奈江は、舞台衣装の裾を縫っていた。

明日の午前に納品するワンピース。作業場の時計は二十一時を回り、同僚はもう帰っている。予定では十九時に終わるはずだったが、袖の寸法が合わず、二度ほどいた。残っているのは裾三十センチだけ。ここまで来たら終わらせるのが普通だと、加奈江は思った。

ミシンの針が上下するたび、目の奥がちらつく。糸はまっすぐ進んでいるのに、自分の視界だけが揺れていた。夕食は菓子パン一つ。水筒は空。休憩を取ると集中が切れるからと、午後から椅子を離れていない。

ペダルを踏み、十センチ進める。そこで縫い目がわずかに曲がった。

加奈江は舌打ちし、糸切りばさみを手に取った。ほどいてやり直す時間を計算する。二十分。仕上げのアイロンまで入れて三十分。終電には間に合う。

曲がりは、舞台上から見れば分からない程度だった。それでも加奈江には、自分が疲れて手を抜いた跡に見えた。休んだせいで質が落ちたと思われるくらいなら、休まず直したかった。

糸を切ろうとして、指先に針を刺した。赤い血が一滴、白い裏地へ落ちそうになる。加奈江は慌てて手を引き、ティッシュで押さえた。心臓が大きく鳴る。衣装は無事だった。

救急箱から絆創膏を出し、指に巻く。作業台へ戻ると、ミシンの照明が裾だけを白く照らしていた。三十センチ。あと少し。その言葉を、今日何度使っただろう。

加奈江は電源スイッチを切った。針の下に布を残したまま、糸も切らない。未完成の衣装を見える場所へ置いて帰るのは初めてだった。

付箋に「裾三十センチ、明朝仕上げ」と書く。理由は書かなかった。体調管理ができず申し訳ありません、と続けかけ、ペンを置いた。

作業場の照明を消すと、ミシンの小さな光も消えた。外へ出ると、夜風が指の絆創膏に冷たい。明日はいつもより三十分早く来れば間に合う。その計算をしたあと、加奈江は早出のアラームを設定しなかった。

納期は消えない。縫い目も自然には進まない。けれど今夜、未完成を抱えたまま帰ることを、加奈江は失敗として縫い直さなかった。