署名欄を破る
十一時五十五分。買収契約書の最終ページが開かれた。
新興企業〈ノードグラス〉代表の硯川真路は、正午までに買い手の署名を得なければならない。成立すれば売却額は六十億円。資金の尽きた会社も、社員八十人の給与も、真路自身の借金も消える。
買収責任者は銀色の万年筆を回す。
「五分で未来が変わる。よく読んだね?」
真路はうなずく。ペン先が署名欄へ触れ、インクが一画目を描く。
十一時五十五分。万年筆がまた指の間で回った。
二周目は価格を下げた。三周目は役員退任を受け入れた。四周目は社員の雇用保証を一年から半年へ縮めた。譲歩するほど署名は完成に近づくが、最後の一画で時間が戻る。
「よく読んだね?」
六周目、真路は契約書の別紙二十七を開いた。利用者の感情記録、視線履歴、睡眠中の音声。自社アプリが集めた生体データを、買い手が永久利用できる条項だった。
真路自身が交渉初日に追加を許可した。会社を高く売るには「将来価値」が必要だったからだ。社員には、技術だけを売ると説明していた。説明会で『皆の仕事を守る契約だ』と断言した映像は、今も社内掲示板の最上段に固定されている。
八周目、真路は完璧な妥協案を作った。データ利用を三年に限定し、その代わり社員の雇用保証を削る。責任者は笑い、署名を最後まで書く。正午まで残り四秒。
契約成立ボタンが光る。目的は達成された。
九周目、真路は交渉しなかった。
万年筆を取り上げ、署名欄を含む最終ページを縦に裂いた。さらに端末を開き、会社の暗号鍵を失効させる。復号できなければ生体データは商品にならず、買収価値も消える。復旧用の鍵は、真路の保有株と連動していた。
《鍵失効により株式価値を零円とします》
確認を押す。
買収責任者が立ち上がった。
「六十億を捨てたぞ」
「六十億で売るものを、読んでいなかった」
正午。時計は十二時一分へ進む。買収は破談。会社には倒産手続きの通知が届いた。
真路は破れた署名欄を二片とも持ち帰らなかった。銀色の万年筆だけが机を転がり、未来という言葉の軽さを、小さな音で知らせていた。