舟底の昼寝
桜庭佐保は、港の食堂で昼定食を作っている。
店先には魚市場の猫・いさりがよく来た。銀色の縞をした雌で、漁師たちからは勝手に船長と呼ばれている。誰かの飼い猫ではなく、市場の事務所で世話をする地域猫だった。
朝の競りが終わっても、いさりが姿を見せなかった。
前夜、強い風が吹き、港の資材がいくつか倒れていた。事務所の人が心配して捜し始めると、漁師、魚屋、食堂の客まで加わった。
港には似た色の影が多い。網、ロープ、濡れた木箱。猫は呼んでも、気分次第で返事をしない。
佐保は厨房の火を弱め、鯖を焼く匂いが外へ流れるよう換気扇を回した。
いさりは食べ物をもらわなくても、焼き魚の時間になると必ず店の裏へ来る。
香りを手がかりに、皆は倉庫、堤防、停泊中の船を一隻ずつ確かめた。
観光案内所の女性が、古い遊覧船の窓に猫の足跡を見つけた。
その船は整備のため陸へ上げられ、船室の扉が半開きになっていた。
中へ入ると、潮と油と古い木の匂いがする。奥の座席から、鈴のない小さな喉の音が聞こえた。
いさりは舟底近くの毛布の上で眠っていた。
風を避けて入り、船室が静かなので、そのまま熟睡したらしい。佐保が名を呼ぶと、猫は目だけ開け、迷子になった覚えはないという顔をした。
「町じゅう、仕事を止めたのよ」
抱き上げると、いさりは大きく伸びた。
市場へ戻ると、漁師の一人が「捜索隊のまかないだ」と小魚を人間用のつみれにしてくれた。佐保が味噌汁へ落とし、生姜と葱を加える。
事務所の長机を皆で囲み、湯気の向こうで今日初めて名乗り合った。観光案内所と市場で迷子の掲示を共有しよう、遊覧船の見学日を作ろう、と話が広がる。
いさりにはいつもの猫用の食事が出た。
食べ終えると、今度は事務所の窓辺で丸くなり、誰が覗いても目を開けない。
「船長は反省なしか」
漁師が言う。
佐保は椀を両手で包みながら笑った。
「港を一周点検させたつもりかも」
午後、食堂の暖簾を出すと、鯖の脂とつみれ汁の生姜が潮風へ混じった。
古い遊覧船には〈猫は下船しました〉という札が掛かり、通る人がそのたび足を止めて笑った。港は昨日と同じように働き始めたが、互いの顔を呼ぶ声だけが少し増えていた。